建造までの背景とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 建造までの背景の意味・解説 

建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 16:22 UTC 版)

日本丸級貨客船」の記事における「建造までの背景」の解説

東洋汽船」も参照 これまで上海などの近距離海外都市との間に航路開設していた日本海運業者が、比較遠方海外都市定期航路開いたのは1893年明治26年)のことで、日本郵船ボンベイ航路開設したのが最初である。日清戦争後航海奨励法と造船奨励法施行されると、日本郵船他社先んじて欧州航路シアトル航路および豪州航路相次いで開設していった。こうした日本郵船動き対抗心燃やしていたのが浅野で、従来から持っていた小規模海運業者を主体とする浅野廻漕店解散して海外へ雄飛企図した東洋汽船設立した東洋汽船設立後浅野はただちにアメリカヨーロッパに赴き、アメリカではサザン・パシフィック鉄道社長立会いの下、パシフィック・メイル社(英語版)(PM社)およびオリエンタル・アンド・オクシデンタル社(Oriental and Occidental)との提携申し入れサンフランシスコ香港間の航路を、パシフィック・メイルおよびオリエンタル・アンド・オクシデンタルの船舶6隻、東洋汽船船舶3隻で共同運航するという形で設立する契約取り付けた浅野次にイギリスにわたり、複数造船所新造船の概要提示してそのうちサー・ジェームズ・レイング社(Sir James Laing & Sons Co.)とスワン・ハンター社(英語版)が浅野オファー応じ1897年明治30年)にレイング社が2隻、スワン・ハンター社が1隻建造するという内容建造契約取り付けた。これが日本丸級貨客船である。船価は96万円から120万円提示されていたが、最終的に98万円日本への回航費を含めると120万円達した1994年ごろの価格換算すると全船価48億円、トン当たり80万円程度となるが、その当時クルーズ客船の船価も60万円から80万円であまり差はない。 なお、建造所のうちサー・ジェームズ・レイング社は、浅野石油事業懇意にしていたサミュエル商会と縁が深かった

※この「建造までの背景」の解説は、「日本丸級貨客船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「日本丸級貨客船」の記事については、「日本丸級貨客船」の概要を参照ください。


建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 16:39 UTC 版)

報国丸級貨客船」の記事における「建造までの背景」の解説

大阪商船アフリカ関わり1916年大正5年12月までさかのぼり決して縁の浅い土地ではなかった。このころ南米航路貨客船ダーバンケープタウンポートエリザベスといった南アフリカ連邦の主要港寄港するであったが、貿易業者からの要望受けて航路開設に関する研究が行われ、1926年大正15年3月アフリカ東岸線が開設され、翌4月には命令航路指定された。この航路には当時日本郵船オランダのKoninklijke Paketvaart-Maatschappij (KPM)、ドイツ北ドイツ・ロイド英語版)などといった有力船会社ひしめいていたが、大阪商船友好関係築いて協定締結などに務めた航路勢力図変化起こったのは1931年昭和6年)のことである。この年日本郵船との間に「郵商協定」が締結され競合していた日本郵船アフリカ航路から撤退することとなった日本郵船撤退分を大阪商船補完することとなり、従来ケープタウンどまりだった航路南アメリカ延長して規模広げることとなったまた、川崎汽船国際汽船および山下汽船船腹活用しなければならないほど貿易量が増加した大阪商船また、1933年昭和8年)に南アフリカ経由ダカールにいたるアフリカ西岸線を開設する。この航路イギリスのエルダー・デンプスター・ライン(英語版)を筆頭とするヨーロッパ船会社主力占めており、大阪商船はそこに割って入るとなった。しかし、アフリカ東岸線もアフリカ西岸線も、当時主力だったのは「ありぞな丸」(9,683トン)や「あらすか丸」(7,378トン)などのレシプロであった当時日本海運業界は経済不況影響まともに受け、大量中古船係船されている有様であった。船質改善のために1932年昭和7年)からの三次にわたる船舶改善助成施設新型の優秀船を整備し続いて対外拡張国防見地から優秀船舶建造助成施設計画され1937年昭和12年)度から実施されることとなった優秀船舶建造助成施設において逓信省は、貨客船貨物船合わせて30総トン建造助成する計画であったが、そのうち貨客船については1215総トン建造することとされ、日本郵船が7隻、大阪商船が5隻という内訳となった大阪商船の5隻のうち2隻は「国策豪華船」あるぜんちな丸級貨客船であるが、残る3隻はアフリカ東岸線の改善充てられることとなった。これが報国丸級貨客船である。なお、これと前後する形でアフリカ西岸線にも改善のために西阿丸型貨物船3隻を投入することとなったが、この3隻は大阪商船国際汽船手中にする際に、同時に建造肩代わりしたものである。

※この「建造までの背景」の解説は、「報国丸級貨客船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「報国丸級貨客船」の記事については、「報国丸級貨客船」の概要を参照ください。


建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 23:01 UTC 版)

あるぜんちな丸級貨客船」の記事における「建造までの背景」の解説

1916年大正5年12月に「笠戸丸」(6,000トンをもって開始した大阪商船西回り南米航路は、幾度かにわたる船質の更新寄港地調整などを経て1930年昭和5年)末の時点では年間11航海数えるにいたった1931年昭和6年)に、当時競合路線持っていた日本郵船との間に協定を結び、西回り南米航路から日本郵船撤退することとなり、それ以降大阪商船独占経営となったあと、ブラジル移民制限策などがあった一方で貨物取扱量増加するいたった一方国内の状況に目を転じてみれば、日本海運業界は世界的な経済不況影響暗黒期真っ最中であり、大量中古船係船されている有様であった日本海軍間接的な後ろ盾もあって始まった1932年昭和7年)からの三次にわたる船舶改善助成施設によって、日本海運業界はとりあえ新型の優秀船をそろえることができた。続いて対外拡張国防見地から優秀船舶建造助成施設計画され1937年昭和12年)度から実施されることとなった優秀船舶建造助成施設において逓信省は、貨客船貨物船合わせて30総トン建造助成する計画であったが、そのうち貨客船については1215総トン建造することとされ、日本郵船が7隻、大阪商船が5隻という内訳となった当該貨客船はいずれ命令航路就航予定の船であり、従来就航していた貨客船いくつか代替時期差し掛かっていたか、助成資格喪失していたもの就航続けていたかのいずれかであった日本郵船置き換え計画具体的な記録残っているが、大阪商船のそれについては、野間によれば一九三六年末」に「一万二七〇〇トン最高速一六ノット貨客船」が計画され、さらに野間推測では、その新型貨客船は「在来船よりも船客定員少な貨物主体貨客船で、後の報国丸のような船ではなかったろうか」としている。しかし、当初計画していた要目では助成施設適用外となる可能性があったのか、日本海軍からの要求受け入れて要目修正されたが、その詳細に関してはあまり「記録残っていない」。このような経緯経て南米航路向け貨客船として建造されたのが、あるぜんちな丸級貨客船であった

※この「建造までの背景」の解説は、「あるぜんちな丸級貨客船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「あるぜんちな丸級貨客船」の記事については、「あるぜんちな丸級貨客船」の概要を参照ください。


建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 16:26 UTC 版)

T型貨物船」の記事における「建造までの背景」の解説

明治後半期における日本近代海運は、政府の政策もあって貨客船整備重き置かれており、貨物船部門外国船の傭船あるいは中古船購入まかなっている状況だった。船価の点で折り合いがつかなかったのが貨物船整備消極的だった理由一つではあったが、近い将来海外海運業者との競争不利になるのは目に見えていた。 日本郵船もまた貨客船整備大わらわだったが、それと並行して貨物船整備にも取り組むこととなった整備の背景には、近く来るパナマ運河開通などによる需要増加への対応、また欧州航路使用船への航海奨励法による奨励金受給資格喪失への備えがあった。しかし、整備と言ったところでいきなり造船所貨物船建造発注したわけではなく手始め1911年明治44年)にイギリス海運会社であるデン・ラインから当時新鋭貨物船「デン・オブ・クロンビー」(4,947トン)を傭船し、性能運営方法から乗員食事にいたるまで徹底的に調査した調査の末に、「デン・オブ・クロンビー」を建造したグラスゴーラッセル造船所建造中の6,000トン貨物船2隻を購入し、これに改良加えた7,000トンから7,500トン貨物船ラッセル造船所三菱長崎造船所川崎造船所に2隻ずつ発注することとなった。これが、T型貨物船プロトタイプ第一期船である。T型貨物船以後大正10年まで四度わたって建造され、また鈴木商店でも系列会社使って同型船整備するいたった。他にも、川崎造船所ストックボートとして2隻を建造している。

※この「建造までの背景」の解説は、「T型貨物船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「T型貨物船」の記事については、「T型貨物船」の概要を参照ください。


建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 20:45 UTC 版)

第一大福丸型貨物船」の記事における「建造までの背景」の解説

第一大福丸型貨物船整備の背景には、三つ伏線がある。 第一船「第一大福丸」の竣工写真船名表記が「大福丸となっているため、クラス名を「大福丸貨物船」とする書物もあるが、「大福丸」という名前の1,676トン貨物船は、すでに1915年大正4年12月川崎造船所竣工している。厳密には、「大福丸」の竣工時の船名は「第十大運丸」であるが、この船もまた、手持資材活用したストックボートとして建造された。よって、「大福丸貨物船」という記述としては「大福丸」の存在考えると正しくない。「第一大福丸」の船名表記が「大福丸となった理由不明である。第一大福丸型貨物船と関係のない「大福丸」が、実は第一大福丸型貨物船整備伏線一つである。「大福丸」が竣工した時点では第一次世界大戦勃発しており、船価が高騰した一方で船を一隻でも欲し状況となって内田信也山下亀三郎勝田銀次郎三大船成金台頭した。「大福丸」も川崎側に有利な条件売却され決し儲け商売とは言えない造船業では良いニュースとして扱われた。 二つ目整備伏線は、某船会社からの貨物船建造依頼をめぐる話である。川崎で船価80万円貨物船建造させたことのある某船会社が、80万円足が出る程度価格踏んで新たな貨物船建造川崎依頼した。これに対して川崎135万円提示したが、某船会社135万円では高すぎるとして川崎との話を打ち切って別の造船所85万円貨物船建造させようとした。振られ川崎はその話を聞いて実現性に首をかしげたが、果たし85万円では到底できない船会社造船所との間でトラブルとなり、結局船会社資材提供するという条件完成こぎつけた三つ目は、当時川崎造船所稼働状況である。第一大福丸型貨物船整備取りかかろうとしたころの川崎造船所では、戦艦伊勢」と貨客船湖北丸」(大阪商船、2,619トン)、日本郵船整備していたT型貨物船のうちの「但馬丸」、「龍野丸」および「鳥羽丸」ぐらいしか新造工事がなく、暇を持て余していた。川崎造船所松方幸次郎社長当時長期にわたる海外出張であったが、これら一連の出来事参考に、ストックボート建造決意する総計96隻ものストックボート建造したが、その中でも最も勢力大きかったのが、9,100重量トン型の貨物船として建造され第一大福丸型貨物船であった

※この「建造までの背景」の解説は、「第一大福丸型貨物船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「第一大福丸型貨物船」の記事については、「第一大福丸型貨物船」の概要を参照ください。


建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 02:02 UTC 版)

天洋丸級貨客船」の記事における「建造までの背景」の解説

東洋汽船」および「日本丸級貨客船」も参照 1896年明治29年6月創業した東洋汽船浅野財閥)は、パシフィック・メイル社(英語版)(PM社)およびオリエンタル・アンド・オクシデンタル社(Oriental and Occidental)との提携によりサンフランシスコ香港間の航路を、パシフィック・メイルおよびオリエンタル・アンド・オクシデンタルの船舶6隻と自己の船舶3隻で開設する。この航路のために用意されたのが日本丸級貨客船であり、経営比較順調に推移していた。 ところが、提携先一つであるパシフィック・メイル社と、後発組の、ジェームズ・ジェローム・ヒル率いグレート・ノーザン汽船会社は、ともに1万トン越え大型船建造乗り出す。パシフィック・メイル社の「コリア」 (S.S. Korea) と「サイベリア」 (S.S. Siberia) は太平洋航路では初めての1万トン超の貨客船であり、続いて建造された「モンゴリア」 (S.S. Mongolia) と「マンチュリア」 (S.S. Manchuria) は1万3千トン級に、グレート・ノーザン汽船会社の「ミネソタ」 (S.S. Minnesota) と「ダコタ」 (S.S. Dakota) にいたっては2トン超える大きさであった1万トン超の大型船威力は凄まじく、例えば「亜米利加丸」はホノルルですでに確保していた船客40名を「コレア」に取られたほどであった日本丸級貨客船陳腐化目の当たりにし、大型船建造決議をしていた東洋汽船ではあったが、日露戦争行く末ある程度つかめるうになるまで計画実行移されなかった。そんな中浅野総一郎はパシフィック・メイル社社長エドワード・ヘンリー・ハリマンから、「日本丸級貨客船程度船舶では太刀打ちできないだろうから、日本丸級貨客船をパシフィック・メイル社に売り渡すか、パシフィック・メイル社の持ち全て購入するか」という内容交渉持ちかけられた。浅野総一郎ハリマンからの話をとりあえずはやり過ごし遼陽会戦終わったあとの1904年9月から大型船建造具体化させ、日本海海戦勝利した直後1905年6月三菱長崎造船所大型船2隻の建造契約を結び、のちに1隻を追加発注した。これが天洋丸級貨客船である。

※この「建造までの背景」の解説は、「天洋丸級貨客船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「天洋丸級貨客船」の記事については、「天洋丸級貨客船」の概要を参照ください。


建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/28 08:56 UTC 版)

橿原丸級貨客船」の記事における「建造までの背景」の解説

欧州航路とならぶ日本郵船主力航路一つであった北アメリカ航路のうちサンフランシスコ航路は、「浅間丸」(16,947トン)をはじめとする浅間丸貨客船依然として躍していた。競合するバンクーバー発着カナダ太平洋汽船CPL)(英語版)は「エンプレス・オブ・ジャパン(英語版)」 (RMS Empress of Japan) (26,032トン)などで、ロバート・ダラー(英語版)が設立し、その一族率いるダラー・ラインも「プレジデント・フーヴァー」 (SS President Hoover) (21,936トン)などで太平洋の覇を競っていた。このうち、ダラー・ラインは放漫経営たたって経営苦しくなったところに「プレジデント・フーヴァー」が1937年昭和12年12月台湾火焼島座礁沈没する不運重なり自社株政府引き渡して事業から撤退。残るは日本郵船CPL争いとなったが、「エンプレス・オブ・ジャパン」はとにかく快速誇り横浜港からホノルルまでは浅間丸貨客船より1日早く着きホノルルからバンクーバーでも距離がホノルルサンフランシスコの間よりも遠いにもかかわらずホノルルサンフランシスコ間と同じ日数到着することができた。貨物の面では高級品の絹が大阪商船畿内丸型貨物船代表される日本高速ディーゼル貨物船隊に根こそぎ運ばれるなどの影響はあったが、旅客利便の面ではCPL船隊快速勝っていた。 政府1937年昭和12年)に優秀船舶建造助成施設施行し逓信省から優秀船建造意向打診された日本郵船助成施設行使して7隻、計94,500トン新造優秀貨客船建造することとなり、これは日本郵船計画していた2525トンにおよぶ大建計画一角をなした建造計画欧州航路向けの新田丸級貨客船3隻、シアトル航路および豪州航路向けの三池丸級貨客船4隻の整備決まったおりしも東京オリンピック1940年昭和15年)に開催されることが決まり超大型貨客船建造機運高まりつつあった。旗振り役は海軍であり、海軍1936年昭和11年)の時点で「24,000排水トン最大速力24ノット有事の際には空母改装」を条件とする貨客船建造逓信省要請したものの、この時は建造案の帝国議会への提出にはいたらなかった。昭和12年改めて「26,000から27,000総トン、半載状態で23ノット有事の際には3か月空母改装」という条件建造案が検討され始め助成割合について逓信省主張する8割案と大蔵省主張する5割案で対立があったが、日本海軍折衷案として6割案を提示して妥結した。これが「大型優秀船建造助成施設」である。政府1938年昭和13年3月表向きは「サンフランシスコ航路代替船」ということにして、日本郵船建造命じた。 ところが、当の日本郵船はあまり乗り気ではなかった。1隻あたり2,400万円建造費に対す助成金が8割から6割に下がったことや当時ニーズ採算性、そして自社資金繰り事情勘案して27,000総トンもの大型貨客船が必ずしも必要ではないと判断していたからである。日本政府日本郵船憂慮察したのか、運航上の損失補償補助する内約とりつけて日本郵船から建造受諾引き出した。これが橿原丸級貨客船である。なお、大阪商船出身海事史家である野間恒は、「日本郵船断れば、建造話は大阪商船持ち込まれるだろうから、苦慮の上面子をかけて建造案を受諾した」という趣旨の話を述べているが、建造案を受諾するかどうか苦慮したことは確実としても、大阪商船云々の件についての話の出所不明である。また、建造に際して日本郵船は2隻とも三菱長崎造船所建造する計画であったが、日本海軍意向もあって1隻は川崎造船所発注されることとなった日本郵船川崎造船所貨客船建造依頼するのは、1914年大正3年竣工の「八阪丸」(10,932トン以来のことであった

※この「建造までの背景」の解説は、「橿原丸級貨客船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「橿原丸級貨客船」の記事については、「橿原丸級貨客船」の概要を参照ください。


建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 06:25 UTC 版)

川崎型油槽船」の記事における「建造までの背景」の解説

虎丸」(スタンダード石油531トン)に始まる日本動力付きタンカーは、早くも1910年明治43年建造の「紀洋丸」(東洋汽船、9,287トン)で1万トンに迫る大きさのものができ上がっていた。1921年大正10年建造の「橘丸」(帝国石油、6,539トン)は「典型的近代油槽船ひな形」とも呼ばれ日本海軍でも大正時代末期から艦艇燃料石炭から石油切り替える事情があって、知床型給油艦隠戸型給油艦整備していた。大正から昭和初期にかけては、主に播磨造船所横浜船渠三菱長崎造船所多く大型タンカー建造されるうになるが、性能要目の面で統一感があったわけではなかった。飯野商事飯野海運)が日本海軍の優秀タンカー建造政策応えて1931年昭和6年)に建造した富士山丸」(飯野商事、9,527トン)は、初め2条の縦通隔壁渡して強度与え、その他機器類なども新型のものを取りそろえて当時タンカー標準型」と目された。その飯野商事は、「富士山丸」と特務艦野間」の後身である「日本丸」(5,841トン)に続く3隻目の外航タンカー整備計画策していた。 一方長い不況に陥っていた日本海運業界は、1932年昭和7年)から始まった船舶改善助成施設一気活気づくこととなった。ところが、この助成政策対象となって建造される船は当初貨客船貨物船であってタンカー対象外だったが、そこに割って入ったのが日本海軍だった。もともと、船舶改善助成施設建造される船舶には日本海軍要求で、甲板までの高さ、船倉口の広さおよび砲を備え付けた際の強度工事実施の際の経費盛り込まれており、一朝有事の際には特設艦船転用できるようになっていたのが船舶改善助成施設建造される船舶であって船舶改善助成施設の「裏の目的」でもあった。さきに述べた日本海軍の優秀タンカー建造政策建造された「富士山丸」や「帝洋丸」(日東汽船、9,849トン)なども備砲設置位置速力などの点で海軍側の要求ふんだんに盛り込まれタンカーではあった。しかし、船舶改善助成施設適用タンカーこれまで民間向け大型タンカー建造した実績のある播磨造船所横浜船渠三菱長崎造船所ではなく民間向けタンカー建造実績がなかった川崎建造させるにいたった詳しい経緯はっきりしない時系列的に二通り解釈があって、「日本海軍飯野商事川崎タンカー建造することを要請した」と、「飯野商事川崎タンカー建造発注し、そこに日本海軍からの要求盛り込まれることになった」の二つがある。いずれにせよ川崎海軍艦艇建造実績のあったことから艦政本部指導の下で当該タンカー建造進められ往航時に手ぶら航行するデメリット対策として生糸搭載スペース設けられたが、これは有事の際には弾火薬庫転用できるようになっていた。このように何かと日本海軍指導入りつつ建造されタンカーが、いわゆる川崎型油槽船であった

※この「建造までの背景」の解説は、「川崎型油槽船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「川崎型油槽船」の記事については、「川崎型油槽船」の概要を参照ください。


建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 07:36 UTC 版)

さんとす丸級貨客船」の記事における「建造までの背景」の解説

移民」も参照 移民形態のうち、海を渡る規模移民始まった時期定かではないが、アメリカ大陸の発見以降ととらえる見方がある。ヨーロッパからアメリカへ、またアジアアフリカからヨーロッパアメリカへの各種移民が行われた。日本においても同様で、日本からハワイアメリカおよび南アメリカへ移民明治維新以降行われるようになったいわゆる移民船」の発祥厳密に定かではないが、1620年迫害から逃れるためにイギリスからアメリカ旅立つピルグリム・ファーザーズ乗せたメイフラワー号」は、一種移民船であると言える移民船も、大は「タイタニック」から小は諸々と有名無あわせて多数あったが、その船内環境にはばらつきがあった。コメディ映画ではあるが、自身イギリスからの移民であったチャーリー・チャップリンの『移民』(1917年でも、移民たちが大きく揺れ船内翻弄される様子描写されている。こういった、移民に対して船内環境よろしくない移民船は、「人間を運ぶ貨物船」として否定的な見方をされていた。特に、1912年の「タイタニック沈没では乗船していた移民多くが船と運命をともにしたのが契機一つとなり、以降、特に移民関わる国は四方の声に押される形で移民船改善乗り出すこととなった。すでに「山城丸」(共同運輸、2,528トン)や「笠戸丸」(東洋汽船、6,000トン)などといった移民船出していた日本も関係会議官僚参加させていたが、日本関連法律ブラジルなど受け入れ各国関連法律との間に食い違い見せようになった具体的には、日本では1896年明治29年公布施行の「船舶検査法」を根拠旅客船含めた船舶さまざまな規制項目を定めていたが、法律その実効性や現実流れ乖離生じてきたということであり、また「移民船改善応えなかった」、ということである。 西回り南米航路開設していた大阪商船が、さんとす丸級貨客船整備することになった要因としては、国策南米移民大きく推進されたこと、また、1920年大正9年10月西回り南米航路命令航路指定されこれを機に就航船刷新図ったことがある。その延長線上で抜本的な移民船改善風潮に乗っかったと言えよう。上述法律食い違い問題など長引けば、せっかくブラジルなどの港に到着して現地法律適合していないため、立ち往生する可能性はらんでいた。大阪商船は、ブラジルなどからの締め出し警戒して、あえて「船舶検査法」の規定上回る相手国の法律適応する貨客船整備して風潮応えた。これが、さんとす丸級貨客船建造の背景一つであったさんとす丸級貨客船出現に関係官僚はよい顔をしなかったと伝えられるが、ともかく、日本における移民船の質が改善されることとなった。なお、さんとす丸級貨客船建造数は計画では5隻だったようで、削減した2隻は後年ぶゑのすあいれす丸級貨客船ぶゑのすあいれす丸りおでじゃねろ丸)として竣工した

※この「建造までの背景」の解説は、「さんとす丸級貨客船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「さんとす丸級貨客船」の記事については、「さんとす丸級貨客船」の概要を参照ください。


建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:27 UTC 版)

ぶゑのすあいれす丸級貨客船」の記事における「建造までの背景」の解説

大阪商船のみならず日本初めてのディーゼルエンジン搭載外洋貨客船として建造されさんとす丸級貨客船は、当初は5隻が建造される計画だったようだが、実際には3隻の建造とどまった。しかし、ブラジルへの移民が一層増加する見込まれたため、大阪商船では、さんとす丸級貨客船3隻が出そろったあとに、さらに2隻のディーゼル貨客船建造することに決めた。これが、ぶゑのすあいれす丸級貨客船である。もっとも当時の報道では、さんとす丸級貨客船を単に増備するかのように報じられているが、建造の際には改正施され別のクラスとなった

※この「建造までの背景」の解説は、「ぶゑのすあいれす丸級貨客船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「ぶゑのすあいれす丸級貨客船」の記事については、「ぶゑのすあいれす丸級貨客船」の概要を参照ください。


建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 22:09 UTC 版)

A型貨物船」の記事における「建造までの背景」の解説

日本郵船貨物船隊の主力であったT型貨物船は、1930年代に入ると陳腐化して速力の面では全く勝負にならず、横浜積み出し生糸輸送1932年昭和7年)度の時点大阪商船国際汽船などのディーゼル船に9割9分持っていかれる有様であった。それでも日本郵船は、1920年代後半から1930年代前半にかけて命令航路就航貨客船を「浅間丸」(16,947トン)や「氷川丸」(11,622トン)、「照国丸」(11,931トン)などの新鋭船に置き換えたあと、貨物船部門改善取りかかった第一次船舶改善助成施設ニューヨーク航路向けのN型貨物船建造し次いで欧州航路、特に1917年大正6年開設リヴァプール線でブルー・ファンネル・ライン(英語版)との激し競争対応するための貨物船建造計画した。これがA型貨物船である。船名頭文字は、すべて「あ(A)」で始まる。 A型貨物船5隻のうち、「赤城丸」と「浅香丸」の2隻については船舶改善助成施設適用を受けることとなり、「赤城丸」(第二次船舶改善助成施設適用)の見合い解体船として日本郵船自社船の中から日本最初1万トン貨客船一隻である「春洋丸」(13,377トン)を、「浅香丸」(第三次船舶改善助成施設適用)のそれには日本最初の7,000トン貨客船一隻である「丹後丸」(7,463トン)をそれぞれ充当したが、「丹後丸」の解体はのちに取り消された。

※この「建造までの背景」の解説は、「A型貨物船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「A型貨物船」の記事については、「A型貨物船」の概要を参照ください。


建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 22:19 UTC 版)

新田丸級貨客船」の記事における「建造までの背景」の解説

日本郵船主力航路一つである欧州航路は、1930年昭和5年)に「照国丸」(11,931トン)と「靖国丸」(11,933トン)の2隻のディーゼル貨客船投入して一定の改善見たが、それでも1937年昭和12年)どの時点では「白山丸」(10,380トン)などの船齢10年から20年経った貨客船依然として配置されていた。また、欧州航路同様に命令航路として指定されていた豪州航路および南米西岸航路就航していた貨客船速力落ちて陳腐化甚だしく受命資格失っていた船もあった。 おりしも日本政府はこの昭和12年優秀船舶建造助成施設施行し、6,000トン以上、最高速19ノット高速貨客船12隻の建造策した日本郵船逓信省から優秀船建造意向打診され、船舶改善のために優秀船舶建造助成施設によって7隻94500トン新造優秀貨客船建造することとなり、日本郵船計画していた2525トンにおよぶ大建計画一角をなした。その中で最大のものは欧州航路投入される16,500トン級、速力21ノット」の貨客船であり、同時期には、シアトル航路および豪州航路にも11,000トン級の新造船が2隻ずつ投入されることとなった建造計画名目一つには、1940年昭和15年)に開催予定だった東京オリンピック向けの旅客輸送というのもあった。欧州航路投入される予定建造されたのが新田丸級貨客船である。船名神社由来として「N.Y.K.」の頭文字配したのであるが(それぞれ、Nitta-maru、Yawata-maru、Kasuga-maru、新田神社八幡宮春日大社)、「八幡丸」と「春日丸」は日本郵船所属船としては二代目にあたる。1隻あたりの建造コスト1200万円(「春日丸」は1148万円であったが、そのうち助成金は4,100,250であった

※この「建造までの背景」の解説は、「新田丸級貨客船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「新田丸級貨客船」の記事については、「新田丸級貨客船」の概要を参照ください。


建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 22:04 UTC 版)

音戸丸級貨客船」の記事における「建造までの背景」の解説

1884年明治17年創立大阪商船小規模船主集合体から始まったが、阿波国共同汽船尼崎汽船部のように合同参加しなかった船主存在しいくつかの航路では競争相手となった競争過熱化を防ぐため、大阪商船はしばし競争相手との間で時限協定締結したが、期限が過ぎると再び競争再燃するということ繰り返していた。「大阪山陽線」と称していた瀬戸内海沿岸部の諸港を巡る航路でも例外ではなく尼崎汽船部との間に協定締結協定期限切れによる競争再発繰り返されていたが、1917年大正6年)に四度目の協定締結されてからは共同経営の形がとられるようになって競争も一応は収まった。 そのころ、第一次世界大戦後海運不況対策一つとして世界各国船会社では「経済的」なディーゼル機関重油専焼装置導入すすめられることとなった。この流れ乗って大阪商船建造した最初ディーゼル船が、音戸丸級貨客船である。この時点ディーゼルエンジン製作していた日本の企業ヴィッカース提携していた三菱神戸造船所スルザー提携していた神戸製鋼所そのほか新潟鐵工所および池貝鉄工所などであったが、小型船潜水艦向けのものが多かった三菱神戸造船所建造され音戸丸級貨客船は、ヴィッカースから直接輸入した600馬力ディーゼルエンジン搭載し、狭溢な水路航行できる船型持っていた。もっとも、大阪商船が「ディーゼル機関有利なるを確かめたるが故に」と記していることや、あとにして建造された「紅丸」(1,540トンとともに石炭燃料船と其の能率比較研究中」と書かれた新聞記事あるように、多少実験としての性格をもってたように見受けられる。ともかく、音戸丸級貨客船日本における「ディーゼル船嚆矢」であり、「遠洋航路大型ディーゼル船運航素地作った」点で重要なクラス一つである。ほかならぬ大阪商船が、音戸丸が竣工した1924年大正13年)から、1933年昭和8年)までの10年間に建造した38隻の所有船のうち31隻をディーゼル船でそろえ、「実に当社は我国第一ディーゼル船々主である」と自負するいたった

※この「建造までの背景」の解説は、「音戸丸級貨客船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「音戸丸級貨客船」の記事については、「音戸丸級貨客船」の概要を参照ください。


建造までの背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 16:12 UTC 版)

三池丸級貨客船」の記事における「建造までの背景」の解説

新田丸級貨客船」も参照 日本政府1937年昭和12年)に優秀船舶建造助成施設施行し日本郵船逓信省から優秀船建造意向打診され、船舶改善のために優秀船舶建造助成施設によって7隻94500トン新造優秀貨客船建造することとなった対象欧州航路シアトル航路南米西岸航路および豪州航路の各就航船で、欧州航路向けには新田丸級貨客船建造し配する予定であった一方シアトル航路南米西岸航路豪州航路に関しては、優秀船投入既存振替組み合わせ船舶改善を図ることとなったが、それに伴って航路以外でも大規模な振替予定されていた。当時シアトル航路南米西岸航路豪州航路就航船以下のとおりであった貨物船は除く)。 シアトル航路:「氷川丸」、「平安丸」、「日枝丸豪州航路:「賀茂丸」、「北野丸」、「熱田丸」 南米西岸航路:「平洋丸」、「楽洋丸」、「墨洋丸」 シアトル航路就航氷川丸貨客船は3隻とも1930年昭和5年)と比較新しかったが、豪州航路就航の3隻は1908年明治41年)から1909年明治42年)に建造船齢30年超、かつて欧州航路に就いていた賀茂丸級貨客船構成されており、 南米西岸航路1926年大正15年3月東洋汽船定期航路部門継承し1921年大正10年)から1924年大正13年)の建造の4隻、「安洋丸」(9,534トン)「銀洋丸」(8,613トン)「楽洋丸」(9,418トン)「墨洋丸」(8,619トン)が就航し命令航路就航船としては速力落ちて陳腐化甚だしく、既に安洋丸の代替1930年昭和5年4月平洋丸(9,816 トン)を新造就航させ「銀洋丸」を転配し3隻体制としていたが更に「楽洋丸」は1936年昭和11年2月受命資格喪失しており、「墨洋丸」も1939年昭和14年5月資格を失うことになっていた(1939年昭和14年7月18日太平洋上で火災により沈没。)。氷川丸貨客船自体も、サンフランシスコ航路就航浅間丸貨客船カナダ太平洋汽船英語版)の貨客船との競争苦し戦い強いられていた。シアトル航路投入予定の優秀船のスペックは「11,000トン級、速力20ノット」で2隻建造予定豪州航路投入予定の優秀船のスペックは「11,500トン級、速力20ノット」で、こちらも2隻建造予定されていた。この合計4隻の優秀船が三池丸級貨客船である。船名はいずれ日本郵船船名としては二代目にあたる。1隻あたりの建造コストシアトル航路向けが800万円で、そのうち助成金は2,196,000であった豪州航路向けは建造コストが834万円そのうち助成金227万円であった

※この「建造までの背景」の解説は、「三池丸級貨客船」の解説の一部です。
「建造までの背景」を含む「三池丸級貨客船」の記事については、「三池丸級貨客船」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「建造までの背景」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「建造までの背景」の関連用語

建造までの背景のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



建造までの背景のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日本丸級貨客船 (改訂履歴)、報国丸級貨客船 (改訂履歴)、あるぜんちな丸級貨客船 (改訂履歴)、T型貨物船 (改訂履歴)、第一大福丸型貨物船 (改訂履歴)、天洋丸級貨客船 (改訂履歴)、橿原丸級貨客船 (改訂履歴)、川崎型油槽船 (改訂履歴)、さんとす丸級貨客船 (改訂履歴)、ぶゑのすあいれす丸級貨客船 (改訂履歴)、A型貨物船 (改訂履歴)、新田丸級貨客船 (改訂履歴)、音戸丸級貨客船 (改訂履歴)、三池丸級貨客船 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS