建造までの背景
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「東洋汽船」も参照 これまで上海などの近距離の海外都市との間に航路を開設していた日本の海運業者が、比較的遠方の海外都市に定期航路を開いたのは1893年(明治26年)のことで、日本郵船がボンベイ航路を開設したのが最初である。日清戦争後に航海奨励法と造船奨励法が施行されると、日本郵船が他社に先んじて欧州航路、シアトル航路および豪州航路を相次いで開設していった。こうした日本郵船の動きに対抗心を燃やしていたのが浅野で、従来から持っていた小規模海運業者を主体とする浅野廻漕店を解散して、海外への雄飛を企図した東洋汽船を設立した。 東洋汽船設立後、浅野はただちにアメリカとヨーロッパに赴き、アメリカではサザン・パシフィック鉄道社長立会いの下、パシフィック・メイル社(英語版)(PM社)およびオリエンタル・アンド・オクシデンタル社(Oriental and Occidental)との提携を申し入れ、サンフランシスコと香港間の航路を、パシフィック・メイルおよびオリエンタル・アンド・オクシデンタルの船舶6隻、東洋汽船の船舶3隻で共同運航するという形で設立する契約を取り付けた。浅野は次にイギリスにわたり、複数の造船所に新造船の概要を提示して、そのうちサー・ジェームズ・レイング社(Sir James Laing & Sons Co.)とスワン・ハンター社(英語版)が浅野のオファーに応じ、1897年(明治30年)にレイング社が2隻、スワン・ハンター社が1隻建造するという内容で建造契約を取り付けた。これが日本丸級貨客船である。船価は96万円から120万円で提示されていたが、最終的には98万円、日本への回航費を含めると120万円に達した。1994年ごろの価格に換算すると全船価48億円、トン当たり80万円程度となるが、その当時のクルーズ客船の船価も60万円から80万円であまり差はない。 なお、建造所のうちサー・ジェームズ・レイング社は、浅野が石油事業で懇意にしていたサミュエル商会と縁が深かった。
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建造までの背景
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大阪商船とアフリカの関わりは1916年(大正5年)12月までさかのぼり、決して縁の浅い土地ではなかった。このころは南米航路の貨客船がダーバン、ケープタウン、ポートエリザベスといった南アフリカ連邦の主要港に寄港する形であったが、貿易業者からの要望を受けて航路開設に関する研究が行われ、1926年(大正15年)3月にアフリカ東岸線が開設され、翌4月には命令航路に指定された。この航路には当時、日本郵船やオランダのKoninklijke Paketvaart-Maatschappij (KPM)、ドイツの北ドイツ・ロイド(英語版)などといった有力船会社がひしめいていたが、大阪商船は友好関係を築いて協定締結などに務めた。航路の勢力図に変化が起こったのは1931年(昭和6年)のことである。この年、日本郵船との間に「郵商協定」が締結され、競合していた日本郵船がアフリカ航路から撤退することとなった。日本郵船の撤退分を大阪商船が補完することとなり、従来はケープタウンどまりだった航路を南アメリカに延長して規模を広げることとなった。また、川崎汽船、国際汽船および山下汽船の船腹を活用しなければならないほど貿易量が増加した。大阪商船はまた、1933年(昭和8年)に南アフリカ経由ダカールにいたるアフリカ西岸線を開設する。この航路もイギリスのエルダー・デンプスター・ライン(英語版)を筆頭とするヨーロッパの船会社が主力を占めており、大阪商船はそこに割って入る形となった。しかし、アフリカ東岸線もアフリカ西岸線も、当時主力だったのは「ありぞな丸」(9,683トン)や「あらすか丸」(7,378トン)などのレシプロ船であった。 当時の日本の海運業界は経済不況の影響をまともに受け、大量の中古船が係船されている有様であった。船質改善のために1932年(昭和7年)からの三次にわたる船舶改善助成施設で新型の優秀船を整備し、続いて対外航権の拡張と国防的見地から優秀船舶建造助成施設が計画され、1937年(昭和12年)度から実施されることとなった。優秀船舶建造助成施設において逓信省は、貨客船と貨物船合わせて30万総トンの建造を助成する計画であったが、そのうち貨客船については12隻15万総トンを建造することとされ、日本郵船が7隻、大阪商船が5隻という内訳となった。大阪商船の5隻のうち2隻は「国策豪華船」あるぜんちな丸級貨客船であるが、残る3隻はアフリカ東岸線の改善に充てられることとなった。これが報国丸級貨客船である。なお、これと前後する形でアフリカ西岸線にも改善のために西阿丸型貨物船3隻を投入することとなったが、この3隻は大阪商船が国際汽船株を手中にする際に、同時に建造を肩代わりしたものである。
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建造までの背景
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「あるぜんちな丸級貨客船」の記事における「建造までの背景」の解説
1916年(大正5年)12月に「笠戸丸」(6,000トン)をもって開始した大阪商船の西回り南米航路は、幾度かにわたる船質の更新や寄港地調整などを経て1930年(昭和5年)末の時点では年間11航海を数えるにいたった。1931年(昭和6年)に、当時競合路線を持っていた日本郵船との間に協定を結び、西回り南米航路から日本郵船が撤退することとなり、それ以降は大阪商船の独占経営となったあと、ブラジルの移民制限策などがあった一方で、貨物の取扱量が増加するにいたった。一方、国内の状況に目を転じてみれば、日本の海運業界は世界的な経済不況の影響で暗黒期の真っ最中であり、大量の中古船が係船されている有様であった。日本海軍の間接的な後ろ盾もあって始まった1932年(昭和7年)からの三次にわたる船舶改善助成施設によって、日本の海運業界はとりあえず新型の優秀船をそろえることができた。続いて対外航権の拡張と国防的見地から優秀船舶建造助成施設が計画され、1937年(昭和12年)度から実施されることとなった。 優秀船舶建造助成施設において逓信省は、貨客船と貨物船合わせて30万総トンの建造を助成する計画であったが、そのうち貨客船については12隻15万総トンを建造することとされ、日本郵船が7隻、大阪商船が5隻という内訳となった。当該貨客船はいずれも命令航路に就航予定の船であり、従来就航していた貨客船のいくつかは代替の時期に差し掛かっていたか、助成資格を喪失していたものの就航を続けていたかのいずれかであった。日本郵船の置き換え計画は具体的な記録が残っているが、大阪商船のそれについては、野間によれば「一九三六年末」に「一万二七〇〇トン、最高速力一六ノットの貨客船」が計画され、さらに野間の推測では、その新型貨客船は「在来船よりも船客定員の少ない貨物主体の貨客船で、後の報国丸型のような船ではなかったろうか」としている。しかし、当初計画していた要目では助成施設の適用外となる可能性があったのか、日本海軍からの要求を受け入れて要目が修正されたが、その詳細に関してはあまり「記録が残っていない」。このような経緯を経て南米航路向け貨客船として建造されたのが、あるぜんちな丸級貨客船であった。
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建造までの背景
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明治の後半期における日本の近代海運は、政府の政策もあって貨客船の整備に重きが置かれており、貨物船部門は外国船の傭船あるいは中古船の購入でまかなっている状況だった。船価の点で折り合いがつかなかったのが貨物船整備に消極的だった理由の一つではあったが、近い将来に海外の海運業者との競争で不利になるのは目に見えていた。 日本郵船もまた貨客船整備に大わらわだったが、それと並行して貨物船整備にも取り組むこととなった。整備の背景には、近く来るパナマ運河開通などによる需要増加への対応、また欧州航路使用船への航海奨励法による奨励金の受給資格喪失への備えがあった。しかし、整備と言ったところでいきなり造船所に貨物船建造を発注したわけではなく、手始めに1911年(明治44年)にイギリスの海運会社であるデン・ラインから当時の新鋭貨物船「デン・オブ・クロンビー」(4,947トン)を傭船し、性能、運営方法から乗員の食事にいたるまで徹底的に調査した。調査の末に、「デン・オブ・クロンビー」を建造したグラスゴーのラッセル造船所で建造中の6,000トン級貨物船2隻を購入し、これに改良を加えた7,000トンから7,500トン級貨物船をラッセル造船所、三菱長崎造船所、川崎造船所に2隻ずつ発注することとなった。これが、T型貨物船のプロトタイプと第一期船である。T型貨物船は以後、大正10年まで四度にわたって建造され、また鈴木商店でも系列会社を使って同型船を整備するにいたった。他にも、川崎造船所がストックボートとして2隻を建造している。
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建造までの背景
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「第一大福丸型貨物船」の記事における「建造までの背景」の解説
第一大福丸型貨物船の整備の背景には、三つの伏線がある。 第一船「第一大福丸」の竣工写真で船名表記が「大福丸」となっているため、クラス名を「大福丸型貨物船」とする書物もあるが、「大福丸」という名前の1,676トンの貨物船は、すでに1915年(大正4年)12月に川崎造船所で竣工している。厳密には、「大福丸」の竣工時の船名は「第十大運丸」であるが、この船もまた、手持資材を活用したストックボートとして建造された。よって、「大福丸型貨物船」という記述としては「大福丸」の存在を考えると正しくない。「第一大福丸」の船名表記が「大福丸」となった理由は不明である。第一大福丸型貨物船と関係のない「大福丸」が、実は第一大福丸型貨物船の整備の伏線の一つである。「大福丸」が竣工した時点では第一次世界大戦が勃発しており、船価が高騰した一方で船を一隻でも欲しい状況となって、内田信也、山下亀三郎、勝田銀次郎の三大船成金が台頭した。「大福丸」も川崎側に有利な条件で売却され、決して儲け商売とは言えない造船業では良いニュースとして扱われた。 二つ目の整備の伏線は、某船会社からの貨物船建造依頼をめぐる話である。川崎で船価80万円で貨物船を建造させたことのある某船会社が、80万円に足が出る程度の価格と踏んで新たな貨物船の建造を川崎に依頼した。これに対して川崎は135万円を提示したが、某船会社は135万円では高すぎるとして川崎との話を打ち切って、別の造船所に85万円で貨物船を建造させようとした。振られた川崎はその話を聞いて実現性に首をかしげたが、果たして85万円では到底できないと船会社と造船所との間でトラブルとなり、結局船会社が資材を提供するという条件で完成にこぎつけた。 三つ目は、当時の川崎造船所の稼働状況である。第一大福丸型貨物船の整備に取りかかろうとしたころの川崎造船所では、戦艦「伊勢」と貨客船「湖北丸」(大阪商船、2,619トン)、日本郵船が整備していたT型貨物船のうちの「但馬丸」、「龍野丸」および「鳥羽丸」ぐらいしか新造船工事がなく、暇を持て余していた。川崎造船所の松方幸次郎社長は当時、長期にわたる海外出張中であったが、これら一連の出来事を参考に、ストックボートの建造を決意する。総計で96隻ものストックボートを建造したが、その中でも最も勢力が大きかったのが、9,100重量トン型の貨物船として建造された第一大福丸型貨物船であった。
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建造までの背景
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「東洋汽船」および「日本丸級貨客船」も参照 1896年(明治29年)6月に創業した東洋汽船(浅野財閥)は、パシフィック・メイル社(英語版)(PM社)およびオリエンタル・アンド・オクシデンタル社(Oriental and Occidental)との提携によりサンフランシスコと香港間の航路を、パシフィック・メイルおよびオリエンタル・アンド・オクシデンタルの船舶6隻と自己の船舶3隻で開設する。この航路のために用意されたのが日本丸級貨客船であり、経営も比較的順調に推移していた。 ところが、提携先の一つであるパシフィック・メイル社と、後発組の、ジェームズ・ジェローム・ヒル率いるグレート・ノーザン汽船会社は、ともに1万トンを越える大型船の建造に乗り出す。パシフィック・メイル社の「コリア」 (S.S. Korea) と「サイベリア」 (S.S. Siberia) は太平洋航路では初めての1万トン超の貨客船であり、続いて建造された「モンゴリア」 (S.S. Mongolia) と「マンチュリア」 (S.S. Manchuria) は1万3千トン級に、グレート・ノーザン汽船会社の「ミネソタ」 (S.S. Minnesota) と「ダコタ」 (S.S. Dakota) にいたっては2万トンを超える大きさであった。1万トン超の大型船の威力は凄まじく、例えば「亜米利加丸」はホノルルですでに確保していた船客40名を「コレア」に取られたほどであった。日本丸級貨客船の陳腐化を目の当たりにし、大型船建造の決議をしていた東洋汽船ではあったが、日露戦争の行く末がある程度つかめるようになるまで計画は実行に移されなかった。そんな中、浅野総一郎はパシフィック・メイル社社長エドワード・ヘンリー・ハリマンから、「日本丸級貨客船程度の船舶では太刀打ちできないだろうから、日本丸級貨客船をパシフィック・メイル社に売り渡すか、パシフィック・メイル社の持ち船全てを購入するか」という内容の交渉を持ちかけられた。浅野総一郎はハリマンからの話をとりあえずはやり過ごし、遼陽会戦が終わったあとの1904年9月から大型船の建造を具体化させ、日本海海戦に勝利した直後の1905年6月に三菱長崎造船所と大型船2隻の建造契約を結び、のちに1隻を追加発注した。これが天洋丸級貨客船である。
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建造までの背景
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欧州航路とならぶ日本郵船の主力航路の一つであった北アメリカ航路のうちサンフランシスコ航路は、「浅間丸」(16,947トン)をはじめとする浅間丸級貨客船が依然として躍していた。競合するバンクーバー発着のカナダ太平洋汽船(CPL)(英語版)は「エンプレス・オブ・ジャパン(英語版)」 (RMS Empress of Japan) (26,032トン)などで、ロバート・ダラー(英語版)が設立し、その一族が率いるダラー・ラインも「プレジデント・フーヴァー」 (SS President Hoover) (21,936トン)などで太平洋の覇を競っていた。このうち、ダラー・ラインは放漫経営がたたって経営が苦しくなったところに「プレジデント・フーヴァー」が1937年(昭和12年)12月に台湾火焼島で座礁沈没する不運が重なり、自社株を政府に引き渡して事業から撤退。残るは日本郵船とCPLの争いとなったが、「エンプレス・オブ・ジャパン」はとにかく快速を誇り、横浜港からホノルルまでは浅間丸級貨客船より1日早く着き、ホノルルからバンクーバーでも距離がホノルルとサンフランシスコの間よりも遠いにもかかわらず、ホノルルとサンフランシスコ間と同じ日数で到着することができた。貨物の面では高級品の絹が大阪商船の畿内丸型貨物船に代表される日本の高速ディーゼル貨物船隊に根こそぎ運ばれるなどの影響はあったが、旅客の利便の面ではCPL船隊の快速が勝っていた。 政府は1937年(昭和12年)に優秀船舶建造助成施設を施行し、逓信省から優秀船建造の意向を打診された日本郵船は助成施設を行使して7隻、計94,500トンの新造優秀貨客船を建造することとなり、これは日本郵船が計画していた25隻25万トンにおよぶ大建造計画の一角をなした建造計画で欧州航路向けの新田丸級貨客船3隻、シアトル航路および豪州航路向けの三池丸級貨客船4隻の整備が決まった。おりしも東京オリンピックが1940年(昭和15年)に開催されることが決まり、超大型貨客船建造の機運が高まりつつあった。旗振り役は海軍であり、海軍は1936年(昭和11年)の時点で「24,000排水トン、最大速力24ノット、有事の際には空母へ改装」を条件とする貨客船の建造を逓信省に要請したものの、この時は建造案の帝国議会への提出にはいたらなかった。昭和12年に改めて「26,000から27,000総トン、半載状態で23ノット、有事の際には3か月で空母に改装」という条件で建造案が検討され始め、助成割合について逓信省が主張する8割案と大蔵省が主張する5割案で対立があったが、日本海軍が折衷案として6割案を提示して妥結した。これが「大型優秀船建造助成施設」である。政府は1938年(昭和13年)3月、表向きは「サンフランシスコ航路の代替船」ということにして、日本郵船に建造を命じた。 ところが、当の日本郵船はあまり乗り気ではなかった。1隻あたり2,400万円の建造費に対する助成金が8割から6割に下がったことや当時のニーズ、採算性、そして自社の資金繰りの事情を勘案して、27,000総トンもの大型貨客船が必ずしも必要ではないと判断していたからである。日本政府は日本郵船の憂慮を察したのか、運航上の損失の補償を補助する内約をとりつけて日本郵船から建造の受諾を引き出した。これが橿原丸級貨客船である。なお、大阪商船出身の海事史家である野間恒は、「日本郵船が断れば、建造話は大阪商船に持ち込まれるだろうから、苦慮の上に面子をかけて建造案を受諾した」という趣旨の話を述べているが、建造案を受諾するかどうかで苦慮したことは確実としても、大阪商船云々の件についての話の出所は不明である。また、建造に際しては日本郵船は2隻とも三菱長崎造船所で建造する計画であったが、日本海軍の意向もあって1隻は川崎造船所に発注されることとなった。日本郵船が川崎造船所に貨客船の建造を依頼するのは、1914年(大正3年)竣工の「八阪丸」(10,932トン)以来のことであった。
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建造までの背景
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「虎丸」(スタンダード石油、531トン)に始まる日本の動力付きタンカーは、早くも1910年(明治43年)建造の「紀洋丸」(東洋汽船、9,287トン)で1万トンに迫る大きさのものができ上がっていた。1921年(大正10年)建造の「橘丸」(帝国石油、6,539トン)は「典型的近代型油槽船のひな形」とも呼ばれ、日本海軍でも大正時代末期から艦艇燃料を石炭から石油に切り替える事情があって、知床型給油艦や隠戸型給油艦を整備していた。大正から昭和初期にかけては、主に播磨造船所や横浜船渠、三菱長崎造船所で多くの大型タンカーが建造されるようになるが、性能や要目の面で統一感があったわけではなかった。飯野商事(飯野海運)が日本海軍の優秀タンカー建造政策に応えて1931年(昭和6年)に建造した「富士山丸」(飯野商事、9,527トン)は、初めて2条の縦通隔壁を渡して強度を与え、その他機器類なども新型のものを取りそろえて「当時のタンカーの標準型」と目された。その飯野商事は、「富士山丸」と特務艦「野間」の後身である「日本丸」(5,841トン)に続く3隻目の外航タンカーの整備計画を策していた。 一方、長い不況に陥っていた日本の海運業界は、1932年(昭和7年)から始まった船舶改善助成施設で一気に活気づくこととなった。ところが、この助成政策の対象となって建造される船は当初、貨客船と貨物船であって、タンカーは対象外だったが、そこに割って入ったのが日本海軍だった。もともと、船舶改善助成施設で建造される船舶には日本海軍の要求で、甲板までの高さ、船倉口の広さおよび砲を備え付けた際の強度と工事実施の際の経費が盛り込まれており、一朝有事の際には特設艦船に転用できるようになっていたのが船舶改善助成施設で建造される船舶であって、船舶改善助成施設の「裏の目的」でもあった。さきに述べた日本海軍の優秀タンカー建造政策で建造された「富士山丸」や「帝洋丸」(日東汽船、9,849トン)なども備砲設置位置や速力などの点で海軍側の要求がふんだんに盛り込まれたタンカーではあった。しかし、船舶改善助成施設適用のタンカーをこれまで民間向け大型タンカーを建造した実績のある播磨造船所や横浜船渠、三菱長崎造船所ではなく、民間向けタンカーの建造実績がなかった川崎に建造させるにいたった詳しい経緯ははっきりしない。時系列的に二通りの解釈があって、「日本海軍が飯野商事に川崎でタンカーを建造することを要請した」と、「飯野商事が川崎にタンカー建造を発注し、そこに日本海軍からの要求が盛り込まれることになった」の二つがある。いずれにせよ、川崎が海軍艦艇建造で実績のあったことから艦政本部の指導の下で当該タンカーの建造が進められ、往航時に手ぶらで航行するデメリット対策として生糸搭載スペースが設けられたが、これは有事の際には弾火薬庫に転用できるようになっていた。このように、何かと日本海軍の指導が入りつつ建造されたタンカーが、いわゆる「川崎型油槽船」であった。
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建造までの背景
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「さんとす丸級貨客船」の記事における「建造までの背景」の解説
「移民」も参照 移民の形態のうち、海を渡る規模の移民が始まった時期は定かではないが、アメリカ大陸の発見以降ととらえる見方がある。ヨーロッパからアメリカへ、またアジアやアフリカからヨーロッパやアメリカへの各種移民が行われた。日本においても同様で、日本からハワイ、アメリカおよび南アメリカへの移民が明治維新以降行われるようになった。いわゆる「移民船」の発祥も厳密には定かではないが、1620年に迫害から逃れるためにイギリスからアメリカに旅立つピルグリム・ファーザーズを乗せた「メイフラワー号」は、一種の移民船であると言える。 移民船も、大は「タイタニック」から小は諸々と有名無名あわせて多数あったが、その船内環境にはばらつきがあった。コメディ映画ではあるが、自身もイギリスからの移民であったチャーリー・チャップリンの『移民』(1917年)でも、移民たちが大きく揺れる船内で翻弄される様子が描写されている。こういった、移民に対して船内環境がよろしくない移民船は、「人間を運ぶ貨物船」として否定的な見方をされていた。特に、1912年の「タイタニック」沈没では乗船していた移民の多くが船と運命をともにしたのが契機の一つとなり、以降、特に移民に関わる国は四方の声に押される形で移民船の改善に乗り出すこととなった。すでに「山城丸」(共同運輸、2,528トン)や「笠戸丸」(東洋汽船、6,000トン)などといった移民船を出していた日本も関係会議に官僚を参加させていたが、日本の関連法律とブラジルなど受け入れ各国の関連法律との間に食い違いを見せるようになった。具体的には、日本では1896年(明治29年)公布・施行の「船舶検査法」を根拠に旅客船を含めた船舶にさまざまな規制項目を定めていたが、法律とその実効性や現実の流れに乖離が生じてきたということであり、また「移民船の改善に応えなかった」、ということである。 西回りの南米航路を開設していた大阪商船が、さんとす丸級貨客船を整備することになった要因としては、国策で南米移民が大きく推進されたこと、また、1920年(大正9年)10月に西回り南米航路が命令航路に指定され、これを機に就航船の刷新を図ったことがある。その延長線上で、抜本的な移民船改善の風潮に乗っかったと言えよう。上述の法律の食い違い問題などが長引けば、せっかくブラジルなどの港に到着しても現地の法律に適合していないため、立ち往生する可能性もはらんでいた。大阪商船は、ブラジルなどからの締め出しを警戒して、あえて「船舶検査法」の規定を上回る、相手国の法律に適応する貨客船を整備して風潮に応えた。これが、さんとす丸級貨客船の建造の背景の一つであった。さんとす丸級貨客船の出現に関係官僚はよい顔をしなかったと伝えられるが、ともかく、日本における移民船の質が改善されることとなった。なお、さんとす丸級貨客船の建造数は計画では5隻だったようで、削減した2隻は後年、ぶゑのすあいれす丸級貨客船(ぶゑのすあいれす丸、りおでじゃねろ丸)として竣工した。
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建造までの背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:27 UTC 版)
「ぶゑのすあいれす丸級貨客船」の記事における「建造までの背景」の解説
大阪商船のみならず、日本で初めてのディーゼルエンジン搭載の外洋型貨客船として建造されたさんとす丸級貨客船は、当初は5隻が建造される計画だったようだが、実際には3隻の建造にとどまった。しかし、ブラジルへの移民が一層増加すると見込まれたため、大阪商船では、さんとす丸級貨客船3隻が出そろったあとに、さらに2隻のディーゼル貨客船を建造することに決めた。これが、ぶゑのすあいれす丸級貨客船である。もっとも当時の報道では、さんとす丸級貨客船を単に増備するかのように報じられているが、建造の際には改正が施されて別のクラスとなった。
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建造までの背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 22:09 UTC 版)
日本郵船の貨物船隊の主力であったT型貨物船は、1930年代に入ると陳腐化して速力の面では全く勝負にならず、横浜積み出しの生糸輸送は1932年(昭和7年)度の時点で大阪商船や国際汽船などのディーゼル船に9割9分持っていかれる有様であった。それでも日本郵船は、1920年代後半から1930年代前半にかけて命令航路就航の貨客船を「浅間丸」(16,947トン)や「氷川丸」(11,622トン)、「照国丸」(11,931トン)などの新鋭船に置き換えたあと、貨物船部門の改善に取りかかった。第一次船舶改善助成施設でニューヨーク航路向けのN型貨物船を建造し、次いで欧州航路、特に1917年(大正6年)開設のリヴァプール線でブルー・ファンネル・ライン(英語版)との激しい競争に対応するための貨物船の建造を計画した。これがA型貨物船である。船名の頭文字は、すべて「あ(A)」で始まる。 A型貨物船5隻のうち、「赤城丸」と「浅香丸」の2隻については船舶改善助成施設の適用を受けることとなり、「赤城丸」(第二次船舶改善助成施設適用)の見合い解体船として日本郵船は自社船の中から日本最初の1万トン超貨客船の一隻である「春洋丸」(13,377トン)を、「浅香丸」(第三次船舶改善助成施設適用)のそれには日本最初の7,000トン超貨客船の一隻である「丹後丸」(7,463トン)をそれぞれ充当したが、「丹後丸」の解体はのちに取り消された。
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建造までの背景
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日本郵船の主力航路の一つである欧州航路は、1930年(昭和5年)に「照国丸」(11,931トン)と「靖国丸」(11,933トン)の2隻のディーゼル貨客船を投入して一定の改善を見たが、それでも1937年(昭和12年)どの時点では「白山丸」(10,380トン)などの船齢が10年から20年経った貨客船も依然として配置されていた。また、欧州航路と同様に命令航路として指定されていた豪州航路および南米西岸航路に就航していた貨客船も速力が落ちて陳腐化が甚だしく、受命資格を失っていた船もあった。 おりしも、日本政府はこの昭和12年に優秀船舶建造助成施設を施行し、6,000トン以上、最高速力19ノットの高速貨客船12隻の建造を策した。日本郵船は逓信省から優秀船建造の意向を打診され、船舶改善のために優秀船舶建造助成施設によって7隻9万4500トンの新造優秀貨客船を建造することとなり、日本郵船が計画していた25隻25万トンにおよぶ大建造計画の一角をなした。その中で最大のものは欧州航路に投入される「16,500トン級、速力21ノット」の貨客船であり、同時期には、シアトル航路および豪州航路にも11,000トン級の新造船が2隻ずつ投入されることとなった。建造計画の名目の一つには、1940年(昭和15年)に開催予定だった東京オリンピック向けの旅客輸送というのもあった。欧州航路に投入される予定で建造されたのが新田丸級貨客船である。船名は神社を由来として「N.Y.K.」の頭文字を配したものであるが(それぞれ、Nitta-maru、Yawata-maru、Kasuga-maru、新田神社、八幡宮、春日大社)、「八幡丸」と「春日丸」は日本郵船所属船としては二代目にあたる。1隻あたりの建造コストは1200万円(「春日丸」は1148万円)であったが、そのうち助成金は4,100,250円であった。
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建造までの背景
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1884年(明治17年)創立の大阪商船は小規模船主の集合体から始まったが、阿波国共同汽船や尼崎汽船部のように合同に参加しなかった船主も存在し、いくつかの航路では競争相手となった。競争の過熱化を防ぐため、大阪商船はしばしば競争相手との間で時限協定を締結したが、期限が過ぎると再び競争が再燃するということを繰り返していた。「大阪山陽線」と称していた瀬戸内海沿岸部の諸港を巡る航路でも例外ではなく、尼崎汽船部との間に協定締結と協定の期限切れによる競争再発が繰り返されていたが、1917年(大正6年)に四度目の協定が締結されてからは共同経営の形がとられるようになって、競争も一応は収まった。 そのころ、第一次世界大戦後の海運不況対策の一つとして、世界各国の船会社では「経済的」なディーゼル機関や重油専焼装置の導入がすすめられることとなった。この流れに乗って、大阪商船が建造した最初のディーゼル船が、音戸丸級貨客船である。この時点でディーゼルエンジンを製作していた日本の企業はヴィッカースと提携していた三菱神戸造船所、スルザーと提携していた神戸製鋼所、そのほか新潟鐵工所および池貝鉄工所などであったが、小型船か潜水艦向けのものが多かった。三菱神戸造船所で建造された音戸丸級貨客船は、ヴィッカースから直接輸入した600馬力のディーゼルエンジンを搭載し、狭溢な水路を航行できる船型を持っていた。もっとも、大阪商船が「ディーゼル機関の有利なるを確かめたるが故に」と記していることや、あとにして建造された「紅丸」(1,540トン)とともに「石炭燃料船と其の能率の比較研究中」と書かれた新聞記事があるように、多少は実験船としての性格をもっていたようにも見受けられる。ともかく、音戸丸級貨客船は日本における「ディーゼル船の嚆矢」であり、「遠洋航路用大型ディーゼル船運航の素地を作った」点で重要な船クラスの一つである。ほかならぬ大阪商船が、音戸丸が竣工した1924年(大正13年)から、1933年(昭和8年)までの10年間に建造した38隻の所有船のうち31隻をディーゼル船でそろえ、「実に当社は我国第一のディーゼル船々主である」と自負するにいたった。
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建造までの背景
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「新田丸級貨客船」も参照 日本政府は1937年(昭和12年)に優秀船舶建造助成施設を施行し、日本郵船は逓信省から優秀船建造の意向を打診され、船舶改善のために優秀船舶建造助成施設によって7隻9万4500トンの新造優秀貨客船を建造することとなった。対象は欧州航路、シアトル航路、南米西岸航路および豪州航路の各就航船で、欧州航路向けには新田丸級貨客船を建造して配する予定であった。一方、シアトル航路、南米西岸航路と豪州航路に関しては、優秀船投入と既存船振替の組み合わせで船舶改善を図ることとなったが、それに伴って両航路以外でも大規模な振替も予定されていた。当時、シアトル航路、南米西岸航路と豪州航路の就航船は以下のとおりであった(貨物船は除く)。 シアトル航路:「氷川丸」、「平安丸」、「日枝丸」 豪州航路:「賀茂丸」、「北野丸」、「熱田丸」 南米西岸航路:「平洋丸」、「楽洋丸」、「墨洋丸」 シアトル航路就航の氷川丸級貨客船は3隻とも1930年(昭和5年)と比較的新しかったが、豪州航路就航の3隻は1908年(明治41年)から1909年(明治42年)に建造の船齢30年超、かつて欧州航路に就いていた賀茂丸級貨客船で構成されており、 南米西岸航路は1926年(大正15年)3月に東洋汽船定期航路部門を継承し、1921年(大正10年)から1924年(大正13年)の建造の4隻、「安洋丸」(9,534トン)「銀洋丸」(8,613トン)「楽洋丸」(9,418トン)「墨洋丸」(8,619トン)が就航し命令航路就航船としては速力が落ちて陳腐化が甚だしく、既に安洋丸の代替で1930年(昭和5年)4月平洋丸(9,816 トン)を新造就航させ「銀洋丸」を転配し3隻体制としていたが更に「楽洋丸」は1936年(昭和11年)2月に受命資格を喪失しており、「墨洋丸」も1939年(昭和14年)5月に資格を失うことになっていた(1939年(昭和14年)7月18日、太平洋上で火災により沈没。)。氷川丸級貨客船自体も、サンフランシスコ航路就航の浅間丸級貨客船やカナダ太平洋汽船(英語版)の貨客船との競争で苦しい戦いを強いられていた。シアトル航路に投入予定の優秀船のスペックは「11,000トン級、速力20ノット」で2隻建造予定、豪州航路に投入予定の優秀船のスペックは「11,500トン級、速力20ノット」で、こちらも2隻建造が予定されていた。この合計4隻の優秀船が三池丸級貨客船である。船名はいずれも日本郵船の船名としては二代目にあたる。1隻あたりの建造コストはシアトル航路向けが800万円で、そのうち助成金は2,196,000円であった。豪州航路向けは建造コストが834万円、そのうちの助成金は227万円であった。
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