大正世代
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大正時代生まれ
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大正世代の時代背景
年 | 大正元年(1912年)生まれ | 大正15年(1926年)生まれ | 主な出来事 |
---|---|---|---|
1926年(大正15年/昭和元年) | 14歳 | 0歳 | 昭和へ改元 |
1937年(昭和12年) | 25歳 | 11歳 | 支那事変(日中戦争) |
1941年(昭和16年) | 29歳 | 15歳 | 大東亜戦争(太平洋戦争) |
1945年(昭和20年) | 33歳 | 19歳 | 終戦 |
1952年(昭和27年) | 40歳 | 26歳 | サンフランシスコ講和条約 |
1964年(昭和39年) | 52歳 | 38歳 | 東京オリンピック |
1973年(昭和48年) | 61歳 | 47歳 | 第1次石油危機 |
1989年(昭和64年/平成元年) | 77歳 | 63歳 | 平成へ改元 |
1995年(平成7年) | 83歳 | 69歳 | 阪神・淡路大震災 |
2011年(平成23年) | 99歳 | 85歳 | 東日本大震災 (東北地方太平洋沖地震) |
2019年(平成31年/令和元年) | 107歳 | 93歳 | 令和へ改元 (令和時代) |
概要
大正時代は、明治時代以降の近代の年号(明治・大正・昭和・平成)の中で15年間という最も短い期間であった。1年間の出生数は明治初期の100万人程度から大正世代は200万人程度まで倍増した。2012年(平成24年)に大正元年生まれが100歳以上となった。
1932年(昭和7年)に1912年(大正元年)生まれが成人した。1932年(昭和7年)〜1945年(昭和20年)の十五年戦争の期間内に20歳の成人となった大正世代の男子は成人と同時に召集令状(赤紙)が来て日本軍の軍人となった。最後の大正世代の1926年(大正15年)生まれは、1946年(昭和21年)に成人した。「大正生まれ」と云う曲が昭和時代の戦後期に誕生した。作詞者が小林朗であり、女性篇は作詞が佐々木律子と玉城百合子で楽譜はニ短調四拍子の曲で、作曲は大野正雄で編曲は大前成之である。[2]
幼年期に第一次世界大戦があり、大正時代に帝国主義や藩閥政治が終焉していた。大正デモクラシーによる民力涵養運動・部落解放運動・労働運動・婦人解放運動・普選運動があった。その結果、民本主義思想が国民に広まった事によって大正時代末期から政党政治が行われるようになった。昭和初期に民政党・政友会の二大政党から内閣総理大臣が天皇から任命された。また全ての成人した国民男子が、選挙権を獲得する普通選挙法が大正末期に成立して、昭和初期に普通選挙が行われた。
子供時代(小学生時代)に関東大震災で被災した体験がある最年少の世代である。[3]大正デモクラシーの時代に生まれた「大正世代」は大正時代の中心思想であった吉野作造が唱えた民本主義による思想の影響でリベラルな思想を持っていた。
軍事費の増大と植民地経営のコスト増大と世界大恐慌による収入減で財政難となっていた。大正自由教育運動など欧米で活発化していた新教育運動が日本にも輸入されて、1920年代から1930年代前半にかけて教育された世代である。[4]
自由主義の影響を受けて、家制度によるお見合い結婚から恋愛を謳歌する風潮や、個性を重視する教育・作文による教育・私立学校による教育が盛んになっていた。[5]大正時代には、明治時代までは帝国大学のみだった大学が急増していた。明治時代までは専門学校扱いであった私立大学が大学令により認可されて、高等教育が普及した。当時はまだ義務教育のみの小学校卒業の学歴が大半であり、大学生はエリートであったが、都市部を中心に大学を卒業したインテリ層が増加してサラリーマン層が誕生した。学歴社会や企業社会の基礎となる高学歴化や都市化が進展した。箱根駅伝や高校野球など戦前から始まり戦後になっても続いている部活動が盛んになった世代である。[6]帝国大学・旧制大学・旧制高校・旧制中学で戦前期に最後の大日本帝国の教育制度を受けた世代である。[7]
文化的には大正ロマンや昭和モダンなどの影響で、歌謡曲や洋服などの衣装や洋食文化が普及した。ロシア革命など社会主義思想の影響を受けて、労働問題や貧困問題で左翼思想が台頭した。天皇制を否定する危険思想と解釈した日本政府は、左翼思想への対策として、尋常小学校向けの国定教科書の改訂を行い、尊王精神を強化したり、靖国神社を信仰する右翼思想教育や軍国主義を強化する思想教育を行った。
人口論研究者による世代的特徴
大日本帝国最後の正規軍人世代
大正世代は大正時代から昭和時代の戦前期にかけて学生時代を過ごして、最後の大日本帝国の戦時下でない正規の教育制度を受けた世代である。小学校時代に修身などの授業で尊皇などの教育を受けた。男性が正規兵として従軍して、戦争前から〜戦中までの時期に軍隊経験があるのはこの世代が最後である。昭和一桁世代も軍隊経験があるもの、予科練や最末期であり、大正世代は最後の正規期間で教育を受けた職業軍人の世代であり、最後の正規徴兵制度の対象世代であった。大正時代に誕生した男性は30歳の壮年期までに約4割が死亡した。戦死で約14%、その他の理由で約26%の男性が死亡した事で、大正世代の男性人口は急減した。令和初期(2022年)に退役軍人の平均年齢が100歳以上になった。
戦死が多い世代
多数が学徒出陣した。1950年(昭和25年)の人口統計では20歳(1930年生まれ)から44歳(1906年生まれ)までは、男性の数(明治末期世代から〜大正世代〜昭和初期生まれ世代までの男性人口)が女性人口を下回っていた。[8][9]特に大正世代の、25歳(1925年(大正14年)生まれ)から34歳(1916年生まれ)までの男女の人口を比べる男女比は、100万人以上男性人口が女性人口より少なかった。大正時代に誕生した日本人の男子1348万人のうち、約200万人近くが戦死した。[10]さらに、1921年(大正10年)生まれから1926年(大正15年)生まれの大正末期世代では、7分の1以上の男性が戦死している。
男女比
戦争で多数の日本軍兵士が戦死したため大正世代の若い男性が少数となり、トラック一杯の女に男が一人の割合と呼ばれるまでの男性不足の問題があった。若い女性は結婚難になった。女性の方が圧倒的に多かった事から男性は容易に結婚が出来て生涯未婚率は極めて低い1%以下であった。男性は病気の保有や障害者や犯罪者であるなど特別な事情がない以外は全員結婚する皆婚であった。女性は男性より未婚率が高くて、有力な男性の妾となる女性がいた。また、パンパンと呼ばれた売春婦となる女性や、占領軍の兵士と結婚して「戦争花嫁」となった女性もいた。最後の家制度世代であった。1945年(昭和20年)11月1日の沖縄県を除く日本全国の人口調査では兵役についた年齢の17歳から39歳までの性比が低いが、20歳代半ばの性比は0.4人まで低下して、20代では男性人口は女性人口の半分以下しか存在しなかった。
大正生まれの女性は半数近くの5割は90歳代まで生存しているが、男性は40歳までの病死及び戦死率が高かった。大正生まれの男性の40歳時点の生存率は約5割(50%)であった。
家制度世代
大正世代は太平洋戦争から復員した終戦後に子供を儲けた世代である。団塊の世代を中心にしらけ世代までにかけての親世代となった。戦後の第一次ベビーブームで日本の人口を急増させた多産世代である。
息子である団塊の世代には体罰教育が当たり前に行われていた。戦後に婦人参政権を得た最年少の世代である。漫画家である(水木しげる・武良布枝)夫妻のように昭和一桁世代の一つ世代が若い女性と結婚する男性も多くて、大正世代であっても子供数が2人や子供が女子のみしか誕生しなかった家庭の男性もいたが、9割以上のほとんどの男性は息子である跡継ぎがいた。[11]
結婚と出産
- この世代はまだお見合い結婚が主流であった。子供の数も4人から6人の複数兄弟が当たり前であり、大正前期生まれは、明治生まれ世代と同様、平均子供数が4人から6人であったが、大正後期生まれ(しらけ世代の親)は平均子供人数が3人程度まで落ち込んだ。女性は戦中生まれと団塊の世代は産婦人科ではなく、産婆による自宅などでの出産制度が主流であったが、大正後期生まれになると都市部を中心に産婦人科での病院出産も増えた。
- 出生コーホート別の国立社会保障人口問題研究所が調査した出生数の統計では、以下となっていた。
<大正初期生まれ世代>
- 不妊症などで無子である女性が7.1%
- 子供数が1人の女性が7.9%
- 子供数が2人の女性が9.4%
- 子供数が3人の女性が13.8%
- 子供数が4人以上である女性が61.8%であった。
- 平均出生数(子供数)は4.2人であった。
<分析結果>
- 不妊症の無子の家庭もある程度いたが、養子として親戚などから子供を迎えて家を存続したケースが多かった。子供数1人と子供数2人の女性は1割以下で、戦時中に結婚した夫が戦死して多産にならなかったケースが多くて、子供数3人の女性も1割弱であり都市部の住民(高学歴層・サラリーマン層・工場労働者層)に子供数が3人以下の家庭が多かった。大部分の国民の約6割が子沢山である子供数が4人以上であり、農家は金の卵と呼ばれた子供数が6人から10人である子沢山の家庭が多かった。
<大正末期生まれ世代>
- 不妊症などで無子である女性が6.9%
- 子供数が1人の女性が9.2%
- 子供数が2人の女性が24.5%
- 子供数が3人の女性が29.7%
- 子供数が4人以上である女性が29.6%であった。
- 平均出生数(子供数)は2.9人であった。
<分析結果>
- 子供数2人や子供数3人の女性が増加して大学などの高等教育に子供を進学させるサラリーマン化した家庭や少子化が大正末期生まれ世代で進行した。子供数4人以上の女性も3割近くと多くて子供数3人が平均家族モデルであった。[12]
- ^ 1912年7月30日は明治45年生まれと大正元年生まれが重複。1926年12月25日は大正15年生まれと昭和元年生まれが重複するが両日とも大正生まれの大正世代に含む。
- ^ http://ncode.syosetu.com/n2420f/3/
- ^ 皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年)194頁〜195頁の大震災襲来の項目
- ^ http://ncode.syosetu.com/n2420f/4/
- ^ 皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年)136頁〜139頁の理想の學校づくり-個性尊重かかげて次々と産声の項目
- ^ 皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年)124頁〜127頁の燃え上がる野球熱大学高校から中学への浸透の項目
- ^ 皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年)94ページ1行目〜95ページ1行目の進学熱と百家争鳴の項目
- ^ 人口統計資料集(2012)
- ^ 45歳(1905年生まれ)〜59歳(1891年生まれ)は、女性の出産による死亡が多かった事と男性の戦死が少なかった事から女性人口の方が男性人口より少なかった。60歳以上の高齢者は男性人口より女性人口の方が多かった。
- ^ http://nippon-end.jugem.jp/?eid=3263
- ^ http://hagakurecafe.gozaru.jp/zyosei10meizi.html
- ^ http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2006pdf/20061006090.pdf#search='%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3+%E6%80%A7%E6%AF%94'国立社会保障人口問題研究所人口統計資料集2006年(平成18年度版)
- ^ http://www.fihs.org/volume11_2/articles4.pdf#search='%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E4%B8%96%E4%BB%A3+%E6%80%A7%E6%AF%94' 性比からみたがん死亡率のコホート分析 −昭和ヒトケタ男性短命の原因を追って−
- ^ 岩手県、栃木県、富山県で大正元年~2年生まれが県内最高齢者となっている。
- ^ https://news.yahoo.co.jp/articles/8df6d11b62a383b29f194f8772be03699dadf6f5
- ^ 東京府・大阪府・福岡県で少子化が進み子供が少なくて大正時代に4.0人ほどの出生率だった
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