蒙古聯合自治政府
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「蒙疆」の由来
「蒙疆」という名称は、日本軍が内蒙古にモンゴル人を主体とする政権を築く際に、「蒙古」と呼んでしまうと同地の南部を中心に居住する回民(漢系ムスリム)を蔑ろにしてしまうと考え、「蒙古人の土地」という意味であえて曖昧な「蒙疆」という表現を使ったために生まれた言葉である。この地名は「蒙疆聯合委員会」として政権の名称ともなったが、この地を「蒙古」と認識するモンゴル人からは反感も強く、その後の改組では「蒙古聯合自治政府」へと名称が変更された。[1]
1939年、京城帝国大学蒙疆探檢隊の多田文男は「蒙疆と云ふ字が何を意味…疆に就いては、萬里の長城の内外長城線の中間地帯を指してゐると云ふ読と、或は漠然と邊疆を意味すると云ふ詮と、さては新疆省の疆だと云ふ者もあります。」[2]と述べており、名称の曖昧さが窺える。
歴史
蒙疆地区には1937年、蒙古聯盟・察南・晋北の3自治政府が設立されたが、利害関係を調整して活動の円滑化を図るため、1937年11月22日、3自治政府によって蒙疆聯合委員会が設立された[3]。
しかし、この委員会が十分に機能しなかったため、政府そのものを統合、一体化しようという機運が高まり、1939年9月1日、駐蒙日本軍の主導のもとで、3自治政府が統合して蒙古聯合自治政府が樹立された[4]。初代の主席にはデムチュクドンロブ(徳穆楚克棟魯普、徳王)、副主席に于品卿と夏恭、最高顧問に金井章次が就任[4]。首都は張家口に置かれ、名目としては中華民国臨時政府・汪兆銘政権といった傀儡政権下の自治政府という位置づけだった。この統合により総人口525万4833人のうち漢民族が9割の501万9987人に対してモンゴル族は15万4203人となった。
日本は、特定地点に防共目的で日本軍を駐屯し、内モンゴルを特殊防共地域とする方針を発表していた(1938年〈昭和13年〉12月「日支国交調整方針に関する声明」〈第三次近衛声明〉)[5]。主席のデムチュクドンロブ(徳王)は就任宣言において「防共協和および厚生に最善の努力を行使」と謳った[6]。その後、1940年(昭和15年)11月30日に、日本は中華民国南京国民政府(汪兆銘政権)と日華基本条約を結び、南京国民政府は共同防共を実行するための蒙疆への日本軍の駐屯を認めた。
1941年8月4日には蒙古自治邦政府へと政府名称を改称[7]。蒙疆は中国に隷属する地方政権という意味があり、モンゴルの民族・土地・人という意味があり世界にも知られている「蒙古」に変えるというモンゴル側の強い意向があったという[7]。
蒙疆連絡部
蒙古聯合自治政府が発行した紙幣(左)と硬貨(右) |
1938年11月28日、第1次近衛内閣は、対中国中央機関としての興亜院の設置を閣議決定した。翌年3月10日、張家口に興亜院蒙疆連絡部が設置された。同年6月20日、後に第68代・69代総理大臣となった若き大蔵官僚の大平正芳が、蒙疆連絡部経済課主任(同年10月、経済課長)として着任し、1940年10月まで日本の大陸経営の一端を担ってきた。大平の重要な職務のひとつは、興亜院が主導する阿片政策の遂行であった。結局、蒙疆地区は、アジアの阿片供給源として位置づけられた。
- ^ 坂本勉『日中戦争とイスラーム 満蒙・アジア地域における統治・懐柔政策』慶應義塾大学出版会
- ^ 多田文男「蒙彊の地理: 外洋流域より内陸流域への遷移」『地学雑誌』第5巻第5号、1939年、232頁、doi:10.5026/jgeography.51.231。
- ^ 倪 2009, p. 90.
- ^ a b 倪 2009, pp. 90–91.
- ^ 近衛首相演述集 近衛文麿、厚地盛茂 1939年
- ^ 朝日東亞年報 昭和十三→十六年版 朝日新聞社中央調査会 1941年
- ^ a b ハスチムガ「モンゴル自治邦における日本の衛生・医療活動 : 伝統社会から近代社会への移行 (交感するアジアと 日本)」『アジア研究』別冊3、静岡大学人文社会科学部アジア研究センター、2015年2月、60-61頁、doi:10.14945/00008106。
- ^ 秦 2001, 81頁.
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