蒙古自治への活動
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1936年(民国25年)2月、デムチュクドンロブ(徳王)が蒙古軍総司令部を創設すると、李守信もこれに参与し、副総司令兼軍務部長に就任した。同年5月、蒙古軍政府が成立すると、李は参謀部長に任命された。このほか、軍政府総裁幇弁や第1軍軍長を兼任している。李は日本の援助を受け、蒙古軍を拡充した。 同年11月、デムチュクドンロブと李守信率いる蒙古軍と、王英率いる「大漢義軍」が綏遠を攻撃した。しかし、傅作義・宋哲元の反撃に敗れ、退却している(綏遠事件)。撤退後、蒙古軍総司令部が設立され、デムチュクドンロブが総司令、李が副司令に就任した。 1937年(民国26年)10月、日本軍の援助により蒙古聯盟自治政府が成立する。まもなく、李守信は蒙古軍総司令に昇格した。1938年(民国27年)7月、李は蒙古聯盟自治政府副主席に当選する。1939年(民国28年)9月、蒙古聯合自治政府が成立すると、李は引き続き蒙古軍総司令をつとめた。 1940年(民国29年)1月、李は蒙古聯合自治政府代表として青島で、南京国民政府代表の周仏海と会談し、自治権をめぐる交渉を行っている。その結果、南京国民政府を正統の中央政府と承認し、その地方政権となる一方で、蒙古聯合自治政府は(1) 高度な自治、(2) チンギス・カン紀元の年号の使用、(3) 蒙古聯合自治政府旗の使用等を許可された。1941年(民国30年)6月、蒙古聯合自治政府が蒙古自治邦に改められると、副主席に当選した。
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