西北研究所とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 西北研究所の意味・解説 

西北研究所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/22 04:25 UTC 版)

西北研究所
前身 財団法人蒙古善隣協会調査部
設立 1944年
設立者 大東亜省
設立地 蒙古聯合自治政府領・張家口
解散 1945
種類 学術研究機関
公用語 日本語
所長 今西錦司
テンプレートを表示

西北研究所(せいほくけんきゅうじょ)は、1944年(昭和19年)、日本軍支配下の蒙古聯合自治政府首都の張家口に設立された日本の研究機関。

沿革

1944年春、内モンゴルの日本軍占領地で少数民族工作を担当していた善隣協会の調査部を改編する形で大東亜省管轄の研究所として設立された。満州蒙古一帯の生態学民族学的調査が主な業務であり、退役軍人の土橋一次が機関長(理事長)、今西錦司が所長、石田英一郎が次長にそれぞれ就任した。

研究所の活動

名称の由来は不明であるが、「西北」とは当時一般に(ソ連の対中国支援ルートが通過する)新疆甘粛地方を意味しているため、この地域への日本軍の進出を念頭にしたものと言われる。先行の民族研究所の設立に関わった岡正雄はこの研究所の設立にも関与しており、このため民族研究所の姉妹機関としての位置づけもなされていた。官立機関であるため、所員である人類学者たちはフィールドワークを行うための身分を保証されていた。

研究所のプロジェクトとしては今西・梅棹忠夫らによるモンゴル研究、佐口透岩村忍らのイスラーム研究英語版(民族研究所との共同プロジェクト)があったが、設立翌年の1945年には日本の敗戦により廃止され、活動期間は短く研究所としては目立った業績を上げることは出来なかった。しかし今西を筆頭にいわゆる「京都学派」のフィールドワーカーが結集しており、満鉄調査部などと異なって所員には研究成果を日本に持ち帰ることが許されたため、この時の調査結果を利用して戦後多くの論文が書かれ「今西進化論」などの理論的発展を準備したといわれる。

組織

第1課(理系)と第2課(文系)で構成されていた。

所長・次長
所員(五十音順)

参考文献

当事者の回想

関連項目

脚注




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「西北研究所」の関連用語

西北研究所のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



西北研究所のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの西北研究所 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS