満州国・蒙古聯合自治政府とは? わかりやすく解説

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満州国・蒙古聯合自治政府

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 02:46 UTC 版)

内モンゴル独立運動」の記事における「満州国・蒙古聯合自治政府」の解説

1932年関東軍清朝皇帝であった溥儀執政とした満州国建国した。これにより内モンゴル東部満州国となった満洲国では清王朝以来続く満洲モンゴル友好血縁関係からモンゴル人積極的に満州国皇帝仕えた1935年3月ソビエト内モンゴル東部満州国内)に権益持っていた北満鉄道満州国売却する内モンゴル中部ではチャハルデムチュクドンロブ徳王)やユンデン・ワンチュク雲王)などの王公によって自治要求運動なされるようになり、1936年には自治求め内モンゴル軍(ru)と中華民国軍とが全面衝突した(綏遠事件)。1939年デムチュクドンロブ日本の支援受けて蒙古聯合自治政府樹立し内モンゴルモンゴル人による自治政府誕生した。ただし、総人口5254833人のうち漢民族が9割の5019987人に対してモンゴル人154203人だった。満州国とともに蒙古聯合自治政府それぞれ独自の行政機関軍事組織通貨をもつなど中国本土とは完全に分離した政治経済体制であった1941年4月13日日ソ中立条約ソビエト連邦日本の間で締結され満州国内モンゴル東部)とモンゴル人民共和国外モンゴル)の領土保全相互不可侵約束した共同声明出された。ところが、1945年2月11日ソビエト連邦アメリカ合衆国大英帝国ヤルタ会談開き満州中華民国のものとし、北満鉄道南満州鉄道ソ連中華民国共同ものとすることを取決め外モンゴルのみを独立させ、内モンゴル中華民国影響下とした上で現状維持とすることをモンゴル人満州人意志とは関係なく決定した1945年8月9日突如としてソ連外モンゴル連合軍満州国内モンゴル侵略してきたことによって満州国蒙古自治邦政府1941年蒙古聯合自治政府から改称)は崩壊したソビエト参戦)。日本根本博中将揮下の駐蒙軍は約4在留邦人引き揚げるまで張家口ソ連軍進撃食い止めたソ連軍の1個師団と3個機械化旅団モンゴル人民軍の4個師団及び1個機械化旅団内モンゴル侵攻し内モンゴル東部からチャハル熱河省といった内モンゴル西部 まで進駐した。旧蒙古自治邦政府では内モンゴル独立宣言をした内モンゴル人民共和国、旧満州国興安総省では東モンゴル自治政府ホロンバイル自治省政府など成立して外モンゴルへの内モンゴル併合求め運動勃発したソ連モンゴル当初汎モンゴル主義を煽って内外モンゴル統一掲げてたが、中ソ友好同盟条約中華民国外モンゴル独立認めさせる代わりに内外モンゴル統一要求取り下げ撤退することになった

※この「満州国・蒙古聯合自治政府」の解説は、「内モンゴル独立運動」の解説の一部です。
「満州国・蒙古聯合自治政府」を含む「内モンゴル独立運動」の記事については、「内モンゴル独立運動」の概要を参照ください。

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