満州国建国において
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1931年(民国20年)の満州事変では、臧式毅は関東軍との間で和平交渉を進めようとしたが、失敗し、関東軍に拘禁されてしまう。しかし、日本の後ろ盾により袁金鎧・闞朝璽らが組織した奉天地方自治維持会(遼寧省地方自治維持委員会)は、統治のための力量も声望も乏しかった。そのため日本は臧式毅を釈放し、12月15日に奉天省長に任命して、遼寧の統治を行わせた。この際に臧式毅は、以後積極的に東三省政権を組織すること、東三省内に日本軍を駐在させて国防を委任し、その軍事費を負担することなどを板垣征四郎から要求された。臧式毅は、身の危険を感じて文書に署名せざるを得なかった、とされる。 1932年(民国21年)1月16日、臧式毅は、煕洽・張景恵・馬占山との四者会談に参加した。17日に臧式毅は東北行政委員会委員となっている。18日、同委員会は電文を発し、東北地方の国民政府からの離脱を宣言した。しかしこの前後において、溥儀よりも、臧式毅を新国家の首班に擁立すべき、との声も張景恵らからは強かった。現地において、辛亥革命以来の中国人の努力を無にしてしまい、また、東三省自治指導運動の意義を抹殺してしまう、との反発があったためである。これを背景にして、2月に建国最高会議が開かれた際には、臧式毅は張景恵らと共に立憲共和制の採用を唱え、帝制採用を唱える張燕卿(煕洽の代理人)・謝介石らと対立した。この対立は、関東軍の調停により、溥儀をいったん執政に擁立するという案で妥協が図られている。
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