五木寛之 経歴

五木寛之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/18 06:05 UTC 版)

経歴

生い立ち

1932年教員の松延信蔵とカシエの長男として福岡県八女郡に生まれる。生後まもなく、日本統治時代の朝鮮に渡り、父の勤務に付いて全羅道京城など朝鮮各地に移る。少年時代は、父から古典の素読や剣道詩吟を教えられ、小説や物語を読むことを禁じられたが、友人から借りた山中峯太郎南洋一郎坪田譲治佐々木邦江戸川乱歩などを隠れて愛読した[1]第二次世界大戦終戦時は平壌にいたが、ソ連軍進駐の混乱の中では母は死去、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げる。

引き揚げ後は父方の祖父のいる三潴郡、八女郡などを転々とし、行商などのアルバイトで生活を支えた。1948年に(旧制)福岡県立八女中学校に入学、ゴーゴリチェーホフを読み出し、同人誌に参加してユーモア小説を掲載。福岡県立福島高等学校に入学してからはツルゲーネフドストエフスキーなどを読み、テニス部と新聞部に入って創作小説や映画評論を掲載した。1952年に早稲田大学第一文学部露文科に入学。横田瑞穂に教えを受け、ゴーリキーなどを読み漁り、また音楽好きだった両親の影響で、ジャズ流行歌にも興味を持った。生活費にも苦労し、住み込みでの業界紙の配達など様々なアルバイトや売血をして暮らした。『凍河』『現代芸術』などの同人誌に参加し、また詩人三木卓とも知り合う。1957年に学費未納で早稲田大学を抹籍された(後年、作家として成功後に未納学費を納め、抹籍から中途退学扱いとなる)。また、この頃に父を亡くす。

作家として

大学抹籍以降、創芸プロ社でラジオのニュース番組作りなどいくつかの仕事を経て、業界紙『交通ジャーナル』編集長を務めるかたわら、知人の音楽家加藤磐郎の紹介で三木トリローの主宰する三芸社でジングルのヴァース(CMソングの詞部分)の仕事を始める。CMの仕事が忙しくなって新聞の方は退社し、CM音楽の賞であるABC賞を何度か受賞。PR誌編集や、『家の光』『地上』誌などでのルポルタージュコラムの執筆、テレビ工房に入り放送台本作家としてTBS『みんなで歌おう!』などのテレビやラジオ番組の構成を行う。また野母祐、小川健一と3人で「TVペンクラブ」を立ち上げ、NHKテレビ『歌謡寄席』制作、『うたのえほん』『いいものつくろ』構成などを手がける。大阪労音の依頼で創作ミュージカルを書き、クラウンレコード創立に際して専属作詞家として迎えられ、学校・教育セクションに所属し、童謡や主題歌など約80曲を作詞した。

1965年には、石川県選出の衆議院議員(のち金沢市長岡良一の娘で、学生時代から交際していた岡玲子と結婚。岡家の親類で跡継ぎがなかった五木姓を名乗る。日本での仕事を片付けて、1965年にかねてから憧れの地であったソビエト連邦北欧を妻とともに旅する。帰国後は精神科医をしていた妻の郷里金沢で、マスコミから距離を置いて暮らし、小説執筆に取りかかる。

1966年、『さらばモスクワ愚連隊』により第6回小説現代新人賞を受賞。引き続き第55回直木賞候補となった。同作は堀川弘通監督により映画化されるなど、五木の出世作となったが、後述のエッセイ『風に吹かれて』によると登場人物の少年(ミーシャ)はソ連の首都モスクワで出会ったジャズ好きの少年をモデルとしており、作中には「非行少年」を意味するロシア語の「スチリャーガ」という言葉も出てくる。映画化に際してはこうした描写を問題視した駐日ソ連大使館から「ソ連の否定的側面のみを拡大誇張して書かれた反ソ的作品」と強い圧力が加わり、現地ロケも認められなかった。そして五木自身も発表から20年以上、1988年までソ連を再訪することはできなかった[2]

1966年には馬淵玄三をモデルにした小説『艶歌』も発表。同作は舛田利雄監督により『わが命の唄 艶歌』として映画化されるなど、音楽ジャンル「演歌」の確立に大きくかかわる。

1967年、ソ連作家の小説出版を巡る陰謀劇『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞を受賞。同年『週刊読売』に連載されたエッセイ『風に吹かれて』は、刊行後から2001年までの単行本・文庫本の合計で460万部に達した。1967年には若いジャズ・トランペッターの冒険を描いた『青年は荒野をめざす』を『平凡パンチ』に連載し、同名の曲を自身の作詞でザ・フォーク・クルセダーズが歌ってヒットした。1969年には雑誌『週刊現代』で『青春の門』掲載を開始した。

1970年神奈川県横浜市に移住。テレビ番組『遠くへ行きたい』で永六輔野坂昭如伊丹十三らと制作に加わった。

休筆以後

1972年から一度目の休筆に入る。休筆期間中の1973年金沢市出身の文豪泉鏡花にちなんだ泉鏡花文学賞、泉鏡花記念金沢市民文学賞の設立に関わり、創設以来審査委員を務める。また1973年7月号から12月号まで『面白半分』編集長を務める。

1974年、執筆活動を再開。リチャード・バックかもめのジョナサン』の翻訳を刊行、ベストセラーとなる。1975年、『日刊ゲンダイ』でエッセイ『流されゆく日々』の連載を開始した。このエッセイは、2023年時点も続く長寿連載となる(2008年に連載8000回の世界最長コラムとしてギネス世界記録に認定、2016年には連載10000回を達成)[注釈 1]。この頃から頸肩腕症候群に悩まされるようになる。1976年、『青春の門・筑豊編』により、第10回吉川英治文学賞を受賞。

1980年、仕事を手伝っていた5歳下の弟を亡くした。その心の痛手から[3]1981年からは再び執筆活動を3年間[3]休止し、京都に移り住み龍谷大学聴講生となり、仏教と仏教史を学ぶ。蓮如によるの組織になどに関心を持った[4]。以後、蓮如については、講演、エッセイ、戯曲などで盛んに取り上げており、テレビ『NHK人間大学』で語った内容は『蓮如 聖俗具有の人間像』として刊行された。戯曲『蓮如 われ深き淵より』は蓮如五百回忌記念前進座公演で、嵐圭史主演で上演された。

1984年に山岳民の伝説を題材にした『風の王国』で、執筆活動を再開した。1985年に国鉄のキャンペーン「エキゾチックジャパン」をプロデュース[5]。1987年にトルコ、1988年にソ連(ロシア)、東西ベルリン、1990年にポーランドソビエト連邦の崩壊後の1992年にロシア再訪など、世界各地を精力的に回る(『世界漂流』による)。ポーランドの民主革命の際には「ワレサはポーランドの蓮如である」と発言して物議をかもした[4]。吉川英治文学賞、坪田譲治文学賞小説すばる新人賞選考委員なども務め、特に直木賞選考委員は1978年から32年間にわたり務めた。1998年には『大河の一滴』がベストセラーとなり、2001年に同タイトルが映画化されるなど、五木を知らない世代にもその名を知らしめた。2002年菊池寛賞を受賞。2003年から2年間、全国の100の仏教寺院を巡り『百寺巡礼』を執筆。2004年仏教伝道文化賞2009年にはNHK放送文化賞を受賞。2010年には『親鸞』上・下により、第64回毎日出版文化賞特別賞を受賞した。2022年日本芸術院会員に選出される。

年譜

賞歴

選考委員

また『面白半分』編集長時代には「日本腰巻文学大賞」を創設している[9]


注釈

  1. ^ ただし、このエッセイは1週間にわたって引用が続くこともあるなど、自著や過去の連載記事を引用することが多い。
  2. ^ 五木は1976年に行われた大藪春彦との対談で両者に共通する引き揚げ体験を語りあいつつ「ぼくなんかも、自分の身を守るために、刃物を振り回したりよくやりましたけど、知力で自分を守るなんて、考えられなかったですね」「その意味では、暴力というものに対して、いまでも一概に否定できないわけです。つまり、暴力はもたざるものの最後の武器じゃないかと」[13]と述べるなど、本作に通ずる暴力観が明かされている。
  3. ^ タイトルは早稲田大学露文科時代のクラス雑誌に由来する。
  4. ^ 1960年代から70年代にかけて発表された「艶歌」「涙の河をふり返れ」「われはうたへど」「怨歌の誕生」の4編を収録。表題作の「怨歌の誕生」(『オール読物』1970年10月号掲載時のタイトルは「実録・怨歌の誕生」)は藤圭子をめぐる実録小説で、この年8月に急逝した藤圭子の追悼出版という体裁になっている。
  5. ^ a b c 1991年10月19日[19]、鈴鹿論楽会(於・鈴鹿市文化会館[19])にて初演[20]鈴鹿の論楽会はF1前夜祭として決勝レースの前晩に開催されていた。
  6. ^ 1991年10月、『汽車は八時に出る』などの訳詞作品と共に鈴鹿論楽会にて初演。更に翌1992年5月放映の五木寛之スペシャル『歌は国境を越えて』(日本テレビ)のメインテーマとなった(後述「メディア出演・テレビ」参照)。歌にまつわる全体の経緯は五木『ソフィアの歌』(新潮社・1994年6月、新潮文庫1997年7月)に詳しい。JASRACのデータベース J-WIDでは作曲者欄は「ロシア民謡」となっているが(2023年6月現在)、同書の譜例(ハードカバー p.109、文庫 p.97)では「~ロシア古謡より~ 五木寛之作詞・作曲」。
  7. ^ 現地ロケの内、五木の出演場面の大半はペテルブルクロケだが、モスクワの場面(ワガニコフスコエ墓地でのヴィソツキーエセーニンの墓参)も若干入る。また番組ではウクライナキエフの民謡楽団も取材されているが、五木はウクライナロケには登場していない。

出典

  1. ^ 高橋康雄「孤立感と共生感」(『海峡物語』講談社文庫、1982年)
  2. ^ 五木『よみがえるロシア』(文藝春秋、1992年7月)p.113。オクジャワとの対談「書くことと歌うことと」。
  3. ^ a b 朝日新聞・1993年8月8日(朝刊)、総合第3面「ひと 作家 五木寛之さん」。
  4. ^ a b 三浦雅士によるインタビュ「なぜいま戯曲を書くのか」(『蓮如-われ深き淵より-』中公文庫、1998年)
  5. ^ 『エキゾチックジャパン新しい旅の感覚』弘済出版社 1985年(澄田信義との対談「エキゾチックジャパンとは何か」)
  6. ^ 第3回 日本作詩大賞(昭和45年) - 日本作詩家協会(2020年4月21日閲覧)
  7. ^ 『レコ大』司会、2年連続で安住アナ&仲間由紀恵 クマムシに特別賞”. ORICON STYLE (2015年11月20日). 2015年11月20日閲覧。
  8. ^ 日本推理作家協会賞・江戸川乱歩賞データ”. 一般社団法人日本推理作家協会. 2022年12月26日閲覧。
  9. ^ 『僕が出会った作家と作品 五木寛之選評集』
  10. ^ 北国新聞」1967年1月29日付
  11. ^ 『五木寛之討論集 箱舟の去ったあと』
  12. ^ 木本至(『青年は荒野をめざす』文春文庫 1974年)
  13. ^ 森村誠一、船戸与一 編『問題小説増刊号 大藪春彦の世界:蘇える野獣』徳間書店、1996年7月、138頁。 
  14. ^ 「漂泊者の思想」(『日本幻論』新潮社 1993年)
  15. ^ 川崎彰彦「解説」(『こがね虫たちの夜』角川書店 1972年)
  16. ^ 『僕はこうして作家になった デビューのころ』
  17. ^ 五木「流されゆく日々 鈴鹿でうたう子守唄」(1)(『日刊ゲンダイ』1991年10月22日)および(4)(同紙、同年10月25日)。
  18. ^ 作曲者はJASRACデータベース J-WIDにて確認。作曲はパブリック・ドメイン扱い(2023年6月現在)。
  19. ^ a b 「ことしも19日に「鈴鹿論楽会」 「歌は国境を越え」テーマに 五木寛之氏や阿木燿子さんら 多彩な出演者」(『中日新聞』1991年10月10日(朝刊)・三重版(三重))。
  20. ^ 五木『ソフィアの歌』(新潮社・1994年6月、新潮文庫1997年7月) Ⅴ「F1レースと鈴鹿の〈論楽会〉」より、ハードカバー p.110、文庫 p.98。
  21. ^ a b 五木「流されゆく日々 鈴鹿でうたう子守唄」(4)(『日刊ゲンダイ』1991年10月25日)。
  22. ^ データベース>ギャラクシー賞”. NPO法人 放送批評懇談会. 2022年11月23日閲覧。
  23. ^ 『サンデー毎日』1974年7月21日号、pp.25-27「大人のファンタジー 『かもめのジョナサン』の読まれ方」。
  24. ^ 『中央公論』2019年1月号、pp.22-35、対談「正統なき異端の時代に」五木寛之・森本あんり。「ジョナサン」への違和感は、pp.26-27で言及されている。
  25. ^ a b 「佐村河内守氏のゴーストライター騒動で封印された新事実」livedoorニュース(2014年12月16日)
  26. ^ 五木寛之 21世紀・仏教への旅 - NHKオンデマンド・ホームページ
  27. ^ 日本経済新聞』朝刊第1面「春秋」2021年9月19日。
  28. ^ “五木寛之さん「捨てない生き方」を語る”. NHKウェブサイト. (2022年4月7日). https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2022/04/story/20220407001/ 2022年7月27日閲覧。 インタビュー聞き手はNHK高瀬耕造アナ。
  29. ^ 五木寛之「コロナ禍の大転換を"他力の風"に変えた私の技法」”. PRESIDENT Online(プレシデントオンライン) (2020年10月2日). 2021年7月12日閲覧。
  30. ^ 五木寛之『流されゆく日々』連載第11,171回「デジタル難民の繰り言(2)」”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2021年7月6日). 2021年7月9日閲覧。
  31. ^ 【論点】「断捨離」考 五木寛之「捨てない」生き方にこだわり×やましたひでこ「捨てて」人生を楽しむ『毎日新聞』朝刊2022年4月20日オピニオン面(2022年6月29日閲覧)






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