シネマコンプレックス
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歴史
マルチプレックスの発祥である北米では、主に1960年代から複数スクリーン化の傾向が見られた。日本でも映画館の複数スクリーン化傾向は古くからある。当初はこれらの映画館をシネマコンプレックスと呼んでいたため、いくつかの映画館が日本初のシネマコンプレックスを名乗っている。
以下、シネマコンプレックスとマルチプレックスの歴史について記述する。
1930年代 - 1992年
- 日本におけるシネマコンプレックスの発祥
日本では1930年代に大劇場時代が到来すると、その地下や高層スペースにもう1つの劇場を設置する映画館が現れはじめた。例えば、日本劇場の地下にニュース映画専門館として1935年12月30日に開館した第一地下劇場などがそれである。これらは当時新興勢力であった東宝の経営手法であったが、良いものは真似をするという姿勢で松竹にも取り入れられていった[38]。だが、一般的には「1つの映画館(施設)に、スクリーンは1つ」であった。
1950年代になると映画館の全盛期が到来し、映画館の新設や建て替えが多数発生した。これに伴い、「1つの施設内に、複数のスクリーンを持つ」劇場が徐々に増えてきた。また、1000席程度のスクリーンの中に壁を入れて左右に仕切ったり、1階席と2階席との間に床を入れて上下に仕切ったりすることで、複数のスクリーンに分割するケースも見られた。
これらの運営システムは、個々の建物として存在する従来の映画館と変わりがない。入替制は導入しておらず[注釈 6][39]、それぞれのスクリーンには独立した館名が付けられ、配給チェーンとスクリーンが固定化されており、「複数の映画館が1つの建物の中にある」状態だった。
1981年10月、ヘラルド・エースの原正人が日本でもシネコンの時代が来るだろうと[40]、ビジネス上の付き合いがあった東映の鈴木常承取締役営業部長に話を持ち掛け、ヘラルド・エースの主催で32人の劇場関係者とジャーナリストを連れて、アメリカ、カナダ、ヨーロッパのシネコンを視察に回った[40]。原としては、日本では劇場システムが大きすぎて、全国公開できるような作品でないと上映できず、小品でも良質な映画をたくさん上映できる方法はないか、と考えシネコンに期待していた[40]。しかし当時の日本では建築基準法の規制が厳しく、発想が早すぎたが、原はこれをミニシアターの発想に繋げている[40]
1984年3月30日に「シネマコンプレックス日本初登場」と銘打ってキネカ大森が開館する[41]。設立した株式会社西友文化事業部によれば、欧米の映画館の動向を調査した結果、動員で上映館を入れ替えられたりインターロック上映をすることが出来たりする複合映画館の形態に行き着いたとしている[42]。同館は流通系店舗のテナントであること、入替制を採用していることなど現在のシネマコンプレックスに近い。一方で、スクリーン数が3と少ないこと、ロードショー、名画座、アート系と言うように各スクリーンの特色を定めている[43]ことなどが、現在のシネマコンプレックスとは異なる。また、現在は上映作品の傾向からミニシアターと認識されることが多い。
この時期から同館と同様に郊外のショッピングセンターに、複数のスクリーンを持つ映画館をテナントとして迎え入れるところが現れはじめた[注釈 7][44]。また、シネマコンプレックスという言葉も使われはじめるようになる。
施設名称 | 開館日 | 所在地 | スクリーン数[注釈 8] | 備考 |
---|---|---|---|---|
名宝会館 | 1955年12月23日[45] (改装日) |
愛知県名古屋市 | 4 (改装後) |
1935年11月3日開館の名古屋宝塚劇場を何度かにわたり、分割、増築して複数スクリーン化。 1972年5月に再改装し、以降3スクリーン[46]。 |
横浜東宝会館 | 1956年3月27日 | 神奈川県横浜市 | 4 | 「映画のデパート」[47]と称す。1980年に改装し、以降5スクリーン。 |
渋谷東急文化会館 | 1956年12月1日 | 東京都渋谷区 | 4 | 老朽および地下鉄副都心線建設のため2003年閉館・解体。 |
相鉄ムービル | 1971年3月5日 | 神奈川県横浜市 | 5 | 「日本で初めて5館をパックした映画館ビル」[48]と称す。 |
小牧コロナ会館 | 1981年7月11日[注釈 9][49] | 愛知県小牧市 | 3[49] | 「日本初のシネマコンプレックス」[50][51]と称す。 1997年7月12日に小牧コロナシネマワールドへ改装。 |
キネカ大森 | 1984年3月30日 | 東京都品川区 | 3 | 西友大森店内に設置。「シネマコンプレックス日本初登場」[41][52]と銘打って開館。 |
池袋シネマサンシャイン | 1985年7月6日 | 東京都豊島区 | 5 | 1994年12月に改装し、以降6スクリーン。 2019年7月19日に「グランドシネマサンシャイン」(12スクリーン)へ移転開業。 |
チネチッタ | 1987年7月25日 | 神奈川県川崎市 | 5 | スクリーン数は「チネグランデ」を除く。 「日本初のシネマ・コンプレックス」[53]と称す。 |
シネシックス[54] | 1988年3月25日 | 千葉県船橋市 | 6 | 当時唯一のアメリカ型ショッピングセンターとされた[54]ららぽーと船橋ショッピングセンター内に設置。 2004年7月にTOHOシネマズ船橋ららぽーとへ改装。 |
他にも後年になってからではあるが、小牧コロナ会館とチネチッタが日本初のシネマコンプレックスを称している。
小牧コロナ会館は、スクリーンで統一された名称が付けられていないこと[注釈 10]、入替制が導入されていないこと[注釈 11]などが、現在のシネマコンプレックスの概念とは異なる。なお、同館を運営するコロナグループはこの時期に同様の劇場を愛知県江南市[注釈 12]、春日井市(1983年3月19日開館)、半田市(1986年7月26日開館)、豊川市(1989年7月15日開館)にも展開している[57]。
チネチッタは「総合映画館ビル」として開館当時のメディア[58][59]には紹介されている。やはり入替制が導入されていないこと[60]、複数フロアに渡っているためロビーなどが共有されていないことなどが、現在のシネマコンプレックスの概念とは異なる。しかし、1996年ごろから同社の企業沿革や地元自治体の広報誌[61]などを中心にいくつかの文献で同館を「日本初のシネマ・コンプレックス」とする記述が見られるようになった。
また、池袋シネマサンシャイン(後のシネマサンシャイン池袋)についても、開館時の雑誌記事ではシネマ・コンプレックスと言う用語を用いて紹介しており[5]、一部の関係者が日本初のシネマコンプレックスと見ることもあった。しかし、これも映写室などが共有されておらず、配給チェーンとスクリーンを固定化した運営を行っており、現在シネマコンプレックスと呼ばれる映画館とは異なる[7]。さらには、シネシックスを日本初とする例も見られるが[62]、スクリーンごとに東宝と松竹という別々の経営母体で運営されており、集客に応じてスクリーンを変更できる柔軟性がなかった。
いずれにせよ、後述するマルチプレックスが日本国内に上陸する以前から、日本独自のスタイルでこれに近い形の興行形態が存在しており、当初はこれら複数スクリーンを持つ映画館をシネマコンプレックスと呼んでいた。ただ、1990年代に見られるような爆発的な普及は起こらなかった。
その要因の1つとして「入場者数の改竄を懸念して同一窓口で複数作品のチケットを扱うことを配給会社が嫌っていた」とも言われるように、因習に縛られ運営システムを変えるまでには至らなかったことが挙げられる[63]。また、当時の映画館が主に建てられていた市街地は地価が高く、収益を上げるのが難しいと考えられていた点も挙げられる[64]。さらには、興行場法、建築基準法、消防法の3法とそれに付随する条例が現在より厳しく、スクリーンの増設がコスト的に難しかったことも挙げられる。そこで、全国興行生活衛生同業組合連合会が1990年頃からこれらの規制緩和を求め各法の所管省庁に対して働きかけを行った[65]。その結果、1992年に規制緩和の方針が決定し、先行して1993年7月1日から東京都では建築安全条例と火災予防条例が改正されている[66][67]。だが、そのころには既に旧来型のシネマコンプレックスの時代ではなく、外資系を中心とした後述のマルチプレックスの普及に一役買うことになるという皮肉な結果となった。
- 北米におけるマルチプレックスの発祥
一方、北米初の2スクリーンを持つ映画館は、1947年にカナダの首都オタワに開館した。 ナット・テイラーが築20年の施設を拡張したエルジンシアターである。他にも1960年代中盤から後半にかけて2スクリーンの映画館が開館している。1965年、ジョージア州イーストポイントに開館したマーチンズ・ウェストゲート・シネマズなどが挙げられる。ナット・テイラーは、マルチプレックスの発明者とされる。後の1979年4月19日にシネプレックス・オデオンを設立し、同年中に、当時世界最大であった18スクリーンのトロント・イートン・センター・シネプレックス(2001年3月閉館)を開館している。
1963年にマルチプレックスの先駆者となるアメリカン・マルチ・シネマ(現AMCシアターズ)のスタンリー・ダーウッドは各映画の上映開始時間を慎重に管理し複数スクリーンを数名で運営する方法を確立した。1960年代はテレビの普及に伴い、アメリカであっても映画人口は減少気味であった。しかし、1970年代これらマルチプレックスがショッピングセンターに併設される形で各地に展開されたことで、再び上昇に転じた。マルチプレックスがショッピングセンターでの購買につながるかどうかについては当初から疑問視する考え方もあったが、ショッピングセンターを認知させる効果があると認められ、コア施設の扱いを受けた[68][69]。
以来、複数スクリーンの映画館が北米では当たり前のものになり、多くの従来館は複数のスクリーンに改装されていった。複数スクリーンが1つのロビーを共有する形態であった。1スクリーンの映画館(従来館)は市場からほとんど撤退した。残った従来館は一般に、アート系映画や小規模製作の映画、映画祭などの上映に使用されている。例えば、カリフォルニア州サクラメントの市街地にあるクレストシアターなどが挙げられる。
この流れはヨーロッパにも広まっていく。1972年にはアルバート・バートとローズ・クライズによって、トリオスコープハッセルト(現キネポリスハッセルト、当時3スクリーン)が開館した。現在、同サイトを経営するキネポリスはこれをヨーロッパ初のマルチプレックスとしている。また、1981年には10スクリーン(当時)を備えるキネポリスヘントが開館した[70]。
定義により異なるが、通常20スクリーン以上のマルチプレックスはメガプレックスと呼ばれる。 一般的に、世界初のメガプレックスは1988年にベルギーのブリュッセルに開館したキネポリスブリュッセル(25スクリーン、7,500席)であると考えられる。 アメリカ初のメガプレックスは1988年に改装したミシガン州グランドラピッズのスタジオ28(20スクリーン、6,000席、2008年11月23日閉館[71])である。
1983年、イギリスではユナイテッド・シネマ・インターナショナルが設立。1985年にマルチプレックスに参入し、5年間で約1200スクリーンから1.5倍に増加させた。世界規模で展開する興行会社が次に参入を考えたのが日本市場であった。1991年10月8日、ワーナー・ブラザース・インターナショナル・シネマズはニチイと合弁で日本にワーナー・マイカルを設立する。
1993年 - 2002年
- 日本市場への各社の参入
1993年4月24日神奈川県海老名市に日本初の本格的マルチプレックスであるワーナー・マイカル・シネマズ海老名が開館した。同社は北米やイギリスと同様にマルチプレックスという用語を用いていたが、日本市場では以前から存在する複数スクリーンの映画館と同様に、シネマコンプレックスと呼ばれた。そして、シネマコンプレックスの定義自体が後にマルチプレックスのことを指すようになる。そのため、現在では同館を日本初のシネマコンプレックスとすることが多い。日本国内のスクリーン数は減少傾向であったが、この1993年を底に増加に転じた。
ワーナー・マイカルの進出当初は業界内では失敗するものと思われていた。従来館が既に撤退していた海老名[注釈 13]には大きすぎる映画館だと考えられていたからである[74]。その後開館した同社のサイトについても同様であった。しかしながら、ワーナー・マイカルは主要他社が参入する1996年までに7サイトを開館し、年商は44億円以上、1スクリーン当たりの興行収入も当時の全国平均を上回る9200万円という成功を収めた[6]。
この成功を機に外資の参入が相次ぎ、国内各社もシネマコンプレックスの建設に取りかかる。
外資系のAMCエンターテインメントとユナイテッド・シネマ ・インターナショナル・ジャパン(以下、UCIジャパン)は1996年、東宝と松竹は1997年、東急レクリエーションは1998年にそれぞれ自社系列のシネマコンプレックスを開館させた。1999年にはさらにヴァージンシネマズ・ジャパンが参入し外資系シネマコンプレックスは4社に増えている。
サイト名称 | 運営企業 | 開館日 | 所在地 | スクリーン数 | 備考 |
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ワーナー・マイカル・シネマズ海老名 (現イオンシネマ海老名) |
株式会社ワーナー・マイカル (現イオンエンターテイメント株式会社) |
1993年4月24日 | 神奈川県海老名市 | 7 | |
シネマシティ | シネマシティ株式会社 | 1994年10月8日 | 東京都立川市 | 6 | |
AMCキャナルシティ13 (現ユナイテッド・シネマ キャナルシティ13) |
AMCエンターテインメント | 1996年4月20日 | 福岡県福岡市 | 13 | |
マイカル松竹シネマズ本牧 (後のMOVIX本牧、閉館) |
株式会社マイカル松竹 | 1996年6月29日 | 神奈川県横浜市 | 7 | マイカル (90%)、松竹 (10%) の合弁。 |
OTSU7シネマ (現ユナイテッド・シネマ大津) |
ユナイテッド・シネマ ・インターナショナル・ジャパン株式会社 | 1996年11月2日 | 滋賀県大津市 | 7 | |
天神東宝 (後のTOHOシネマズ天神本館、閉館) |
東宝九州興行株式会社 | 1997年3月15日 | 福岡県福岡市 | 6 | |
MOVIX六甲 (後のシネウェーブ六甲、閉館) |
株式会社松竹マルチプレックスシアターズ | 1997年3月20日 | 兵庫県神戸市 | 7 | シネマーク・インターナショナルとの合弁。 |
109シネマズ港北 | 株式会社東急レクリエーション | 1998年4月25日 | 神奈川県横浜市 | 7 | |
ヴァージンシネマズトリアス久山 (後のTOHOシネマズトリアス久山、現ユナイテッド・シネマトリアス久山) |
ヴァージンシネマズ・ジャパン株式会社 (現TOHOシネマズ株式会社) |
1999年4月23日 | 福岡県久山町 | 7 | |
イオンシネマ久御山 | イオンシネマズ株式会社 | 1999年6月29日 | 京都府久御山町 | 7 | |
T・ジョイ東広島 | 株式会社ティ・ジョイ | 2000年12月9日 | 広島県東広島市 | 6 |
各社の出店戦略は様々であった。
AMCエンターテインメントは当初九大都市ロードショー地域を中心にメガプレックスを計画していたが、後に地方都市の郊外型ショッピングセンターにも出店するようになった。UCIジャパンは地方の県庁所在地クラスの都市を中心に出店を計画していった[6][63]。また、ワーナー・マイカルは親会社マイカルのショッピングセンターに併設する形で計画を進め、九大都市ロードショー地域である本牧の出店はマイカル松竹に譲り大手映画会社との摩擦を避けた[75]。後に親会社自体が駅前再開発に参画していった[76]ため駅前立地型も増えていく。
東宝グループは有楽町マリオンやシネシックスでの成功を元に、番組編成のしやすい東宝邦画系と洋画系の1・2番手の3スクリーンで組み合わせる劇場展開にこだわり続けた[77]ため出遅れた。1997年頃からこの方針を転換し、5 - 6スクリーンのシネマコンプレックスを展開しはじめたが[78]、そのころ開館した天神東宝は当初は定員入替制の導入をしておらず立ち見を出していたり[79][80]、浜大津アーカスシネマはスタジアムシートを導入しておらずフラットな床だったり、サービス面で見劣る部分があった。1998年12月5日にやっと本格的な郊外型のシネマコンプレックスとされる鯖江シネマ7を開館させたが[81]、ワーナー・マイカルにスクリーン数で国内1位の座を明け渡し、外資系他社の買収を模索するようになる[82]。
一方、松竹は国内興行会社としてはマルチプレックスへの対応が早かった。1990年から海外情報の収集を進め、1995年4月にはマルチプレックスシアター開発委員会を設立。二条駅周辺区画整理事業用地内(現BiVi二条)[注釈 14]への1号店進出を計画した。1996年5月には松竹マルチプレックスシアターズを設立し、2000年までに10地区100スクリーン、国内のスクリーン数が3000を越えた時点で1割に当たる300スクリーンの目標を掲げた。しかしながら、ノウハウ吸収を目的として合弁契約をしたシネマーク・インターナショナルとは開発スタンスの違いが原因で合弁契約を解消したり、競合会社の増加によりテナント契約が困難を極めたりしたため、出店計画に若干の遅れが発生した[83][84][85]。 東宝系の興行各社や松竹マルチプレックスシアターズは、新設される地方のショッピングセンターを中心に出店計画を立てていった。当時各地で開発していたイオン系のショッピングセンターも多く含まれた。
逆に、ヴァージンシネマズ・ジャパンは初期に計画された名古屋ベイシティを除き、イオン系のショッピングセンターへの出店計画は行っていない。ジャスコ久御山ショッピングセンター(現イオンモール久御山)の出店決定が目前と思われていたにも関わらず、同社と同一のコンセプトで子会社のイオンシネマズを出店させたからとされる。また、後に関東、関西の駅ビルを中心に出店計画を行っていくようになった[86]。一方、イオンシネマズは親会社のショッピングセンターに併設する形で計画を進めていった。
1999年UCIは住友商事、角川書店と合弁で新法人ユナイテッド・シネマ株式会社を設立し、1999年10月1日開館のユナイテッド・シネマ岸和田以降に開館したサイトはUCIジャパンではなく同法人での運営とした。住友商事は1985年にアスミックの設立にも参画しているため、この合弁で製作・配給から興行まで関わる企業となっている。また、AMCエンターテインメントは1999年7月に日本法人の株式会社日本AMCシアターズを設立し、劇場運営を移管している。
- 各地の状況
シネマコンプレックスが各地に展開していくにあたり、従来その地方で興行を行っていた企業の反発を招いたり、シネマコンプレックス間での競争が発生したりしはじめた。
- 青森県弘前市
- ワーナー・マイカルの進出にあたって従来館からの激しい反発があった。地元の興行団体だけでなく全国興行生活衛生同業組合連合会まで反対運動を行ったが、1994年9月23日にワーナー・マイカル・シネマズ弘前(現イオンシネマ弘前)は開館した。結果的に、開館当時8館あった従来館のうち6館が1996年までに閉館するだけでなく、ワーナー・マイカルも興行的に苦戦を強いられた[6][87]。ワーナー・マイカルは開館後、弘前ねぷたへ参加するなど、地域に根付くための活動を行っている。
- 福島県福島市
- 1996年9月に福島フォーラムが1998年に進出予定のワーナー・マイカルにスクリーン数の削減を申し入れた。1997年4月にはフォーラム側は3万人以上の市民の署名も集めている。また、新聞にはフォーラムの閉館を危ぶむ声が投書されるなど、映画館同士としての問題だけでなく地元住民の反発まで招いた[88][89]。ここまで至ったのはロードショー上映で収益をあげ、それを原資にミニシアター作品を上映していたフォーラムの手法が支持されていた背景がある[90]。分野調整法に基づいた調整を申請したが通産省および厚生省に却下され[90]、福島フォーラムは1997年4月12日にフォーラム5、6を増設。ワーナー・マイカルは1998年3月1日にワーナー・マイカル・シネマズ福島(現イオンシネマ福島)を予定通りのスクリーン数で開館させ、物別れにおわった。しかしながら、両者とも興行的には共存している。
- 神奈川県横浜市
- 前述の通り1996年6月29日の本牧へのシネマコンプレックスの出店は松竹との合弁会社であるマイカル松竹が行い、マイカルは大手映画会社との摩擦を避けた。しかし、3年後の1999年9月10日、みなとみらい地区への出店はワーナー・マイカルが行った。この地域では馬車道周辺の従来館が優先的に新作配給を受けたため、ワーナー・マイカル・シネマズみなとみらい(現イオンシネマみなとみらい)の開館時には旧作ばかりが上映される事態となった[注釈 15]。しかし、同年12月11日にソニー・ピクチャーズが『ジャンヌ・ダルク』や『ランダム・ハーツ』を封切りと同時に配給し、これを機に同館には順次各社から新作の配給がされるようになった。なお、これらの作品を自社チェーンで上映していた松竹と東宝はソニー・ピクチャーズに対する制裁措置とも言われる数週間での打ち切りやムーブオーバーを行っている[87]。
- 滋賀県大津市
- 1996年11月2日に開館したUCIジャパンのOTSU7シネマと1998年4月23日に開館した東宝直営の浜大津アーカスシネマ(後の大津アレックスシネマ)は直線距離で1.2kmしか離れていない。外資系と国内大手の初の直接対決として注目された。同地域では配給会社によってどちらの劇場に配給するかが別れた。ユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズ配給作品はOTSU7シネマを優先に、東宝邦画系作品は浜大津アーカスシネマを優先に配給された。結果的にそれ以外の上映権を巡って両劇場で争うことになった[84]。
- 福岡県福岡市
- 1996年4月20日にAMCエンターテインメントが九大都市ロードショー地域である福岡県福岡市にAMCキャナルシティ13を開館した。上映作品や料金設定など具体的な内容を開館直前まで発表せず、地元興行会社からはその手法から黒船と恐れられた[92]。これに対抗して松竹マルチプレックスシアターズが同地域に進出する報道もあった[93]が、最終的には断念した。東宝九州興行は同地域の映画館を再編し、東宝系初のシネマコンプレックス天神東宝を1997年3月15日に開館させている。なお、当初AMCキャナルシティ13には邦画系を中心に配給されないことが懸念されたが、結果的には配給が行われた。
当時は大津市や横浜市の例に見られるように、配給会社から配給を受ける上映権を得るために争うことが多かった。しかしながら、従来は7割程度を占めていた従来館中心のロードショー館の興行収益比率がシネマコンプレックス中心のローカル館に押され、2000年には5割近くまで落ち込んでいた。このため配給会社はシネマコンプレックスにも配給を行うようになり、洋画系については2000年以降、おおよその地域ではこのような争いは見られなくなっていった[64]。そして、大半の競合地域では、単純に集客力を争っていくようになり、後に邦画3社が従来館中心からシネマコンプレックス中心へと軸足を動かす要因にもなっていく。
- 日本での急増とアメリカでの破綻
1999年から2001年1月の間にシネマコンプレックスは急増する。この2年1ヶ月の間に主な興行会社だけで、ワーナー・マイカルが24サイト、ユナイテッド・シネマが7サイト、松竹マルチプレックスシアターズが7サイト、東宝および東宝系の六部興行が6サイト、ヴァージンシネマズ・ジャパンが5サイトの出店をしている。これは、1998年に「大規模小売店舗立地法」が成立したため、旧法である「大規模小売店舗法」の基準で計画されたショッピングセンターが旧法の期限である2001年1月までに駆け込み出店したためである。ショッピングセンターに併設されるシネマコンプレックスは結果的に急増する形になった。
2001年1月18日にはロウズ・シネプレックス・エンターテインメントが京都市二条の二条駅周辺区画整理事業用地内[注釈 14]に出店することが京都市より発表された[94]。外資系シネマコンプレックスとして5社目の参入だったが、同年2月15日に同社は日本の民事再生法にあたる連邦倒産法第11章を申請し破綻[95]。参入は実現しなかった。
アメリカで連邦倒産法第11章を申請したのはロウズ社だけではなかった。アメリカでは1990年代にシェア獲得のためメガプレックスの出店競争が過熱した一方、年間観客数は14億人程度と横ばいであったため、採算性が悪化していた。各社とも不採算スクリーンの閉鎖を行ったが、出店の資金負担に耐えられず1999年から2001年の間に相次いで連邦倒産法第11章を申請することになった。日本でも前述の通りシネマコンプレックスが急増していたため、先行きが不安視されるようになる[96]。
興行会社 | 申請日 | 備考 |
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マン・シアターズ (Mann Theatres) |
1999年9月17日 | 後にコロラド・シネマズとカーマイク・シネマズに買収される。 |
カーマイク・シネマズ (Carmike Cinemas) |
2000年8月8日 | 再建後独自ブランドを維持。 |
エドワーズ・シネマズ (Edwards Cinemas) |
2000年8月28日 | 後にリーガル・エンタテインメント (Regal Entertainment Group) 傘下に統合。 |
ユナイテッド・アーティスツ・シアターズ (United Artists Theatre Circuit) |
2000年9月6日 | 後にリーガル・エンタテインメント傘下に統合。 |
ゼネラル・シネマ (General Cinema Corporation) |
2000年10月11日 | 後にAMCシアターズ (AMC Theatres) 傘下に統合。 |
ロウズ・シネプレックス・エンターテインメント (Loews Cineplex Entertainment) |
2001年2月15日 | 後にAMCシアターズ傘下に統合。 |
しかしながら、日本での急増の流れは一旦歯止めがかかる。AMCエンタテインメントはアメリカでの厳しい状況に対応するため、アメリカ国内への投資に集中させた。そのため、日本での出店は2000年7月8日に開館したAMCイクスピアリ16以降、全く行われなくなった[97]。また、2001年9月14日にマイカルが民事再生法を申請、同年11月22日には会社更生法へと申請を切り替えた。この影響での神奈川県の川崎駅北口地区第3西街区(現川崎DICE)への出店など、子会社ワーナー・マイカルの複数の出店計画が白紙撤回された。このため、これ以降約3年間、同社は移転を除き新規出店を行うことはなかった。他の各社も大規模小売店舗立地法が施行されショッピングセンターの開発が減少したため、特に郊外型の出店数は落ち着くようになった。
2001年以降になると、邦画3社がシネマコンプレックス中心に大きく舵を切り、郊外型に代わり大都市のロードショー館が続々シネマコンプレックスのスタイルへ変化していくことになった。京都四条河原町では京都松竹座、SY松竹京映、京都ピカデリーが2001年11月22日に閉館し、翌日MOVIX京都が開館。東京有楽町では日本劇場、日劇東宝、日劇プラザが2002年3月2日に日劇PLEX(後のTOHOシネマズ日劇)に、大阪梅田の北野劇場、梅田スカラ座、梅田劇場は2002年11月23日にナビオTOHOプレックス(現TOHOシネマズ梅田)に生まれ変わっていった。
一方、邦画3社がシネマコンプレックスへと舵を切ったことで、系列館として番組配給を受けていた従来館は閉館を余儀なくされる状況に追い込まれていった。例えば、2003年3月6日の札幌シネマフロンティアの開館に当たっては、帝国座会館やニコー劇場を経営していた天野興業株式会社が同年2月末で番組提携契約を打ち切られ[98]、同年9月5日に自己破産を申請している[99]。外資系シネマコンプレックスとの競争にさらされながらも生き残っていた従来館は、これ以降各地から姿を消していくことになった。
- 設備とサービスの変遷
予約システム
シネマコンプレックスは基本的に定員制をとっているため、利用客は見たい映画が完売して見られないと言うリスクがある。そのため、インターネット普及以前はワーナー・マイカルの一部などいくつかのシネマコンプレックスで電話予約が行われていた[100]。しかし、映画館側の運用が煩雑で、需要が高い繁忙期に対応しきれない問題があった。このため、1997年頃までに電話予約は廃止された[101]。
その後、2000年にアレックスシネマがeメールを使用して席の予約をし、現地で支払うというシステムを導入。2002年にはヴァージンシネマズ・ジャパンがインターネットで支払いを行うチケット販売システム『Vit』を導入したのを皮切りに、インターネットでの販売が主流になっていった。
座席指定
ワーナー・マイカルやAMCエンターテインメントは、座席指定を行わない定員入替制を採用していた。また、一部を指定席にし一般料金より高めの料金設定をする劇場も見られた。しかし、1996年11月にUCIジャパンが開館したOTSU7シネマは全席指定制を採用した。そのため、1998年9月26日公開の『プライベート・ライアン』からワーナー・マイカルは全席指定制を部分採用する形に切り替えた。これ以降、シネマコンプレックスでは全席指定制が主流になっていった。さらに、1999年4月23日に開館したヴァージンシネマズトリアス久山(現:ユナイテッド・シネマ トリアス久山)はプレミアスクリーンとして座席幅を広くし、サイドテーブルのあるシートを採用した高付加価値のスクリーンを設置した。これにより単なる全席指定制では差別化が図れなくなり、各社とも特徴のあるサービスを行うようになっていった。
2003年 - 2009年
- 業界再編
2003年以降になると、外資系シネマコンプレックスの撤退を引き金に業界再編がはじまる。
外資系各社の攻勢でワーナー・マイカルが337スクリーンを保有していたのに対し、東宝グループは284スクリーンと劣勢に立たされていた。この状況に際し、東宝は他社の買収を模索していたとされる[注釈 16]。2003年4月4日、野村證券の仲介により100億円でヴァージンシネマズ・ジャパンを買収し、シェアトップの座に返り咲いた[82][102]。
買収されたヴァージンシネマズ・ジャパンは改称しTOHOシネマズとなった[103]。東宝は同社系列の興行会社をこれ以降再編していく。2006年10月1日に東宝直営館をTOHOシネマズに移管し、続いて2008年3月1日に東宝東日本興行、中部東宝、東宝関西興行、九州東宝をTOHOシネマズに吸収合併させた[PR 10]。各興行会社が運営していたTOHOプレックスをはじめとするシネマコンプレックスは、改装しTOHOシネマズのブランドに変わった。また、TOHOシネマズ高槻、浜大津アーカスシネマ、鯖江シネマ7と言った地方のサイトの一部は独立系の興行会社に事業譲渡された。
2004年4月22日にはマイカルと松竹の合弁であったマイカル松竹シネマズ本牧が松竹ニューセレクトに事業譲渡されることが発表された[PR 11]。同年4月30日以降、同サイトは改装しMOVIX本牧として運営された[注釈 17]。
また、2004年9月にUCIが撤退し、同社保有分のユナイテッド・シネマの株式を住友商事と角川グループに売却した。さらに、2005年にはAMCエンターテインメントが撤退をする。AMCイクスピアリ16を除いた4サイトと日本法人の日本AMCシアターズが7月1日にユナイテッド・シネマに売却された[97]。AMCイクスピアリ16は東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランドと家賃を巡って係争中であったが、9月1日にそのオリエンタルランドに事業譲渡された[104]。同サイトはデジタル3D映画システムの導入などを行い、2006年3月1日に同社の直営のシネマイクスピアリとなっている。
- 再度の急増
この時期になると、大都市ロードショー館のシネマコンプレックス化が加速した。この動きの中では札幌シネマフロンティア(TOHOシネマズ、松竹、ティ・ジョイの共同経営)や、大阪の梅田ブルク7、なんばパークスシネマ(松竹、ティ・ジョイの共同経営)等、日本国内の大手映画会社による、共同経営もみられた。ただし、横浜桜木町で計画されていた共同運営の劇場開発からTOHOシネマズが撤退する事例もあり、完全に足並みがそろっているわけではない[105]。
動員もシネマコンプレックスが主体となっていった。2003年から2006年まで川崎市のチネチッタが年間観客動員数日本一に、2007年は観客動員数はMOVIXさいたま、興行収入はTOHOシネマズ六本木ヒルズが日本一になった。
大規模小売店舗法の下での駆け込み出店が行われた影響もあり、大規模小売店舗立地法が施行された後、しばらくは郊外型シネマコンプレックスの出店ペースは落ち着いていた。前述の通り、大都市ロードショー館のシネマコンプレックス化はあったが、従来館の置き換えであるため、スクリーン全体としては微増であった。2000年に2524スクリーンだったものが2003年末までに2681スクリーンになっただけで、157スクリーンしか増えていない[10]。
しかし、大規模小売店舗立地法自体が郊外型ショッピングセンターの出店を行いやすい法体系であったため、2004年以降、増加傾向に拍車がかかった。さらに、2006年にまちづくり3法が改正され、郊外型ショッピングセンター新設に抑制がかけられたため、再び駆け込み出店が行われることになった。結果的に2006年には従来館も含めると3000スクリーンを突破し、2007年には3221スクリーンとなった[10]。これは1970年頃のスクリーン数とほぼ同じである。当時の映画人口は2億5千万人程度であったが、2001年以降、映画人口は1億6千万から7千万人程度でほぼ横這いの状態が続いており[10]、飽和状態になったとも言われる。
観客数が横ばいでありながら各社の出店が続いていること、映画ソフトのレンタルやテレビでの放映までの期間が近年では短くなってきていること、インターネットによるオンデマンド配信も増えていることなど、シネマコンプレックスの経営は年々厳しくなっていった。また、後述する競合他社との差別化のための設備投資の結果、1998年頃は平均座席占有率[注釈 18]が10.2%で経営が成り立っていたものが、2004年には14.7%まで上昇していった。結果的に、興行収入からの営業利益は4.3%しか得られていない。従来館を含めると2006年には3000スクリーンを突破しているが、3000スクリーンの経営を成立させるには1億8千万人の映画人口が必要との試算もある[96]。このため、入場者の安定確保と共に飲食物など売店収入の増加などが鍵になるとされた[106]。
- 各地の状況
シネマコンプレックスの同士での競合商圏内での出店が増えたため、再編、閉館などの動きが見られるようになった。
- 大阪府高槻市
- ジョイプラザ運営の高槻シネマルート170(2000年7月21日開館)とTOHOシネマズ運営のTOHOシネマズ高槻(2004年2月21日開館)の2サイトが、約2km程度の距離に存在した。2007年6月28日にTOHOシネマズ高槻が閉館し、営業譲渡されたジョイプラザが同一施設で同年6月30日から高槻ロコ9シネマ(現高槻アレックスシネマ)として運営している。また、同日に高槻シネマルート170は閉館し、同地域のシネマコンプレックスは1館に再編された。同地域に東宝の出店予定はなかったが、買収したヴァージンシネマズの出店計画が進んでおり出店せざるを得なかった。無駄な競合を避けるため、TOHOシネマズ高槻の開館後に再編をした[107]とされる。
- 大阪府岸和田市
- 1993年4月29日ワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田が開館した。さらに1999年10月1日ユナイテッド・シネマ岸和田が開館し、2サイトとなった。岸和田市は高槻市より商圏人口で劣りながらも共存していたが、ワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田が老朽化を理由に2008年2月3日をもって閉館した。これは、国内初のシネマコンプレックスの閉館とされる[108]。
- 奈良県橿原市
- 総人口12万5千人程度の都市でありながら、中心部の近鉄大和八木駅を中心に半径約2km圏内に橿原シネマアーク(1999年7月24日開館、5スクリーン)、MOVIX橿原(2001年6月開館、9スクリーン)、TOHOシネマズ橿原(2004年4月1日開館、9スクリーン)の3サイトが存在したが、シネマアークは2009年4月30日に閉館した。MOVIX橿原が入居するツインゲート橿原もシネマコンプレックス以外の入居店舗が大幅に入れ替わっているため苦戦を強いられ、松竹マルチプレックスシアターズは長期間に渡る家賃の削減等の交渉をディベロッパー側と行なっていたが[15]、2014年6月4日に、同年8月31日をもって閉館することを発表した[109]。その後2015年12月18日、MOVIX橿原の跡地にユナイテッド・シネマ橿原がオープンしている。
- 神奈川県海老名市
- 1993年4月24日にワーナー・マイカル・シネマズ海老名(現イオンシネマ海老名)が開業した9年後、2002年4月19日にヴァージンシネマズ海老名(現TOHOシネマズ海老名)が開業した。双方の映画館はわずか400mしか離れていない。しかし、この状況を逆手にとって、2002年から海老名商工会議所が中心となり、海老名プレミアム映画祭を開催し、海老名市を「シネマコンプレックス発祥の地」としてアピールした[110]。
- 埼玉県熊谷市
- 2000年11月16日にワーナー・マイカル・シネマズ熊谷(現イオンシネマ熊谷)が開業した。従来館のシネプラザ21を運営していた鷹の羽興業は2003年9月30日に同館を閉館させ、2004年11月20日にシネマコンプレックスのシネティアラ21を開業させた。熊谷市の人口は20万人程度であるが、それぞれの立地(ワーナー・マイカルはショッピングセンター併設型、鷹の羽興業は駅前立地型)を活かし、共存した。
- 設備とサービスの変遷
シネマコンプレックス間での差別化を図るため、サービスや設備の個性化が進んだ[111]。
コンテンツの差別化という点では、チェーンによる独占上映が行われた。2007年4月9日にユナイテッド・シネマと東急レクリエーションが独自の番組編成を目的に提携したことを発表[PR 12]し、『アドレナリン』など複数の作品が2社の劇場を中心に上映された。2007年12月20日にはティ・ジョイ、東急レクリエーション、ユナイテッド・シネマ、ワーナー・マイカル4社に拡大した「オープン・コラボレーション」という提携を発表[112]し、『ナルニア国物語/第2章: カスピアン王子の角笛』などが4社で独占上映されることになった。
顧客サービス面の差別化ではTOHOシネマズの「ママズ クラブ シアター」などが挙げられる。小さな子供を持つ親を優先にした上映回を設定し、周りの観客に気兼ねなく鑑賞できるようにした。 サービス面の向上を図った結果、各地のシネマコンプレックスで導入されたサービスもある。例としてインターネット予約は各社で導入された。また、ポイントサービスはTOHOシネマズのシネマイレージをはじめ、各社とも導入を行った。一般にポイントサービスはヘビーユーザー向けの物だが、ワーナー・マイカルは「ティーポイント」と提携し、劇場であまり見ない層の集客を図っていた。しかし、2009年6月27日にこのサービスは終了した[113]。
座席幅が広かったりサイドテーブルが付いていたりする付加価値の高い座席も導入するところも増えた[114]。TOHOシネマズでは「プレミアスクリーン」として、1スクリーンを全て高付加価値のシートとしているほか、新宿ピカデリーではプライベートルーム型で3万円の「プラチナルーム」を設置している。他にもワーナー・マイカル・シネマズ(現イオンシネマ)の「ゴールドクラス」、109シネマズの「エグゼクティブシート」、シネマメディアージュの「スーパープレミアシート」などが挙げられる。一方で、改装時に高付加価値のスクリーンを撤去する動きもある。
2010年代
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東日本大震災による影響
2011年3月11日の東日本大震災後、東北、関東地方の多くの映画館が営業休止に追い込まれた。2週間以上営業休止に追い込まれた劇場は40サイト近くにのぼる。ここでは特に半年以上再開が滞ったり、休閉館したサイトについて述べる。
- 宮城県
- 柴田郡大河原町のシーズンズウォークフォルテ2階にあるシアターフォルテが東日本大震災の被害で休館し、復旧に時間がかかった。同施設は映画館のある2階部分の被害が特に大きくその補強工事とデジタル化に向けた工事が必要となっていた。当初は2012年3月に再開する予定であったが、2018年、シアターフォルテ跡地にユナイテッド・シネマが入居することが発表され、同年7月4日、ユナイテッド・シネマ フォルテ宮城大河原として再開館した[115]。「フォルテ (大河原町)」も参照
- また、仙台市泉区の泉コロナシネマワールドは被害が大きく2011年10月に閉館が決定。建物は再開発され、跡地はユニクロ仙台泉店となっている。仙台市宮城野区の仙台コロナワールドは2011年9月に瓦礫の撤去作業までは終了し、併設のホテルやアミューズメント施設は相次いで再開したが、その後の改装や同市中心部にオープンしたTOHOシネマズ仙台の台頭などもあってか、シネコン自体は再開の目途が立たず事実上の閉鎖状態となっている[PR 13][116][117]。
- 埼玉県鴻巣市
- エルミこうのす内にあったシネマックス鴻巣が東日本大震災の影響で閉館した[118]。このショッピングセンターはディベロッパーが破綻したため、地権者が中心となる鴻巣駅東口A地区市街地再開発組合の手によって2008年5月23日に開業させたもの。しかし、劇場は出店予定のワーナー・マイカルが親会社の意向で撤退したため[119]、千葉興行が2009年7月15日に開館させた経緯がある。再開発組合では被害復旧費用の目処が立たず売却を計画したため、賃貸借契約の継続が困難になり2011年12月15日に閉館が発表された。その後、劇場は鴻巣市所有となり、ティ・ジョイが運営する、市民ホール併設のこうのすシネマとして2013年7月5日に再開館した[116][117][120]。「こうのすシネマ」も参照
- 千葉県印西市
- 日活が経営し、東京テアトルに運営を委託していたシネリーブル千葉ニュータウンも東日本大震災で大規模な被害を受け、復旧に時間がかかった劇場の1つである。東京テアトルは復旧に多くのコストが掛かるとして運営再開を断念したため、日活は運営委託先をシネマックスなどを展開する千葉興行に変更した。座席を撤去した上で足場を組んで天井を復旧するなどの修復作業を行い、音響面や上映設備のデジタル化などの変更なども加えられた。名称もシネマックス千葉ニュータウンと変更し、下層階にあった6スクリーンは2011年7月9日に、上層階にあった4スクリーンは同年11月26日にそれぞれ営業を再開した[PR 14][121][122][117]。その後2015年に名称をUSシネマ千葉ニュータウンと改め現在に至る。「シネマックス千葉ニュータウン」も参照
熊本地震による影響
2016年4月に熊本県を中心に発生した熊本地震では、同県熊本市のグランパレッタ熊本内にあるシネプレックス熊本が「ユナイテッド・シネマ熊本」と改称して2016年11月23日に再開館[123]。同県上益城郡嘉島町のイオンモール熊本内にある「イオンシネマ熊本」が2017年3月24日に営業再開[PR 15]と、復旧に半年以上の時間がかかっている。
注釈
- ^ 映画館名簿2013年版を元に、それ以降に各社から発表された開閉館情報を加えた。東日本大震災の被害で2012年末時点で休館中の劇場は映画館名簿2013年版から削除されているため集計から除いている。日本映画製作者連盟の統計同様に5スクリーン以上をシネマコンプレックスとし集計としている。5スクリーン以上のサイトに付随して別棟が存在し、実質的に同一サイトとして運営されている場合は1サイトとしてスクリーン数にも含めた。
- ^ TOHOシネマズ株式会社運営のTOHOシネマズサイトの他、TOHOシネマズ錦糸町、お台場シネマメディアージュ、札幌シネマフロンティアの3サイトを計上。
- ^ 松江東宝5の1サイトを計上。
- ^ MOVIXの他、新宿ピカデリー、なんばパークスシネマ、大阪ステーションシネマの3サイトを計上。
- ^ T・ジョイ蘇我のプライベートルームを除く。多目的ホール兼用のこうのすシネマのシアター1を含む。
- ^ 厳密には1947年1月からスバル興業株式会社が有楽町スバル座にて全席指定制を実施したのを皮切りに定員入替制や全席指定制が広まった時期があった。しかし、これは一時的な流れにとどまり後に従来の流し込み制に戻っている。
- ^ 商業施設に映画館を併設するという考え方自体は古くから存在し、例えば、1930年代には既に百貨店である日本橋の白木屋に映画館の白木劇場が併設されるなどの動きがある。また、1980年代に商業施設に併設された映画館にはビデオシアターも多く含まれる。
- ^ 特別な記述がない限り開館当時のスクリーン数。
- ^ 施設内に映画館が開館した日。併設のパチンコ店は1980年に開業している。
- ^ 1997年の改装まで「小牧シネマ1 - 3」「小牧ロマン」「小牧コロナ1 - 3」等の名称で運営されていた。[55]
- ^ 1997年の改装時に入替制を導入。[56]
- ^ 1926年に開館した新盛座(後に新盛館に改称)を起源に1977年に2スクリーン、1985年に4スクリーン、1994年に6スクリーンと増設している。なお、新盛館は江南コロナ開設後も成人映画館である「江南シネマ」を併設して存続していた(江南コロナでカバーできない作品を上映する補完的な役割を持っていた)が、2002年に江南シネマと共に閉館している。
- ^ かつては海老名村時代の1926年に「相模座」という劇場が発足し、サイレントやトーキー映画を上映していたが、わずか7年ほどで閉館[72]。その後市制施行された1971年頃に「大塚劇場」が開業したが、わずか5年足らずで廃業[73]した為、ワーナー・マイカル開業までは主に隣の厚木市まで映画観賞に足を運ばなければならない状況が続いた。
- ^ a b この事業用地は、当初、松竹マルチプレックスシアターズの進出が計画されていたが、松竹が自社所有地に出店するよう計画変更した。そのため、テナントの選定が再度行われ、2001年にロウズ社が出店する計画となった。しかし、ロウズ社も破綻したため、ヴァージンシネマズ・ジャパンに計画変更。さらにヴァージンシネマズ・ジャパンも東宝に買収されたため、最終的には2005年にTOHOシネマズ二条が開館している。
- ^ ワーナーが配給する作品(『マトリックス』など)ですら封切りから数週間遅れて上映するということすらあった[91]。
- ^ ただし、この報道を東宝側は認めていない。
- ^ 前述の通りみなとみらい地区等の劇場と競合し、後の2011年1月16日に閉館している。
- ^ 上映1回当たりの平均入場者数を全座席数で除した割合。
- ^ 尤も、シネマコンプレックスが展開し始めた当初に開館したワーナー・マイカル・シネマズの各サイト(海老名・東岸和田・高岡・宇多津)、シネマシティ、シネマロブレ5などは、郊外型ではあるが駅前に出店していた。
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