とう‐ちゃく〔タウ‐〕【到着】
到着
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 04:28 UTC 版)
日本軍が初めてアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を占領したのは、1942年6月8日のことである。アッツ島は1942年9月に一旦は放棄されるものの、その後再び部隊を駐留させている。北海支隊の1個連隊、海軍陸戦隊の一隊、支援部隊が1942年10月ごろからアッツ島の防衛のために到着し始めた。山崎保代大佐率いるアッツ島守備隊の兵力は、最終的には2,500人から2,900人にまで達したという。機密保持のために、家族への手紙で一切の日付を書くことが禁じられていたので、辰口がいつアッツ島に到着したかははっきりとはわかっていない。しかし、おそらく1942年の11月から1943年の1月の間だったと考えられている。彼はそこで北海防衛病院での勤務についた。 アメリカ海軍の海上封鎖のために、アッツ島と日本本土の手紙のやり取りはまれにしか行われず、しかも遅れがちだった。しかし辰口は耐子からいくつかの荷物を受け取った。その中にはクッキーやあかぎれの軟膏が含まれていたという。彼の部隊の場所や任務について書くことは禁止されていたので、辰口は天気のこと、雪景色の美しさ、魚釣りなどについて耐子に書き送った。最終的には4通の手紙と何枚かのポストカードが耐子のもとに届いたという。また、2月には二女のローラ・ムツコ(睦子)が生まれ、そのニュースは辰口のもとにも届けられた。彼は、手紙のなかで娘たちにクラシック音楽を聞かせるように記していた。この時期に彼が日記を記していたかどうかは不明である。現在知られている彼の日記は、5月、アメリカ軍がアッツ島の奪還のために上陸作戦を開始した以降のもののみが残されている。
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到着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/16 19:23 UTC 版)
「エルンスト・シュトローマー」の記事における「到着」の解説
1910年11月7日にシュトローマーは古生物学目的の探検のためにロイド社の蒸気船クレオパトラにてエジプトのアレキサンドリアに到着した。だが、三等船室の乗客にコレラと疑われる症状があると医師が報告したため、船が検疫にかけられシュトローマーはその後二日間船中に留まらなければならなかった。 11月9日水曜日に医師が乗客の解放を発表するとシュトローマーと随伴者はホテルに一泊し、翌日カイロ行の汽車に乗った。 カイロのホテルにチェックインしたのち、シュトローマーはエジプト地質学調査委員会 (Geological Survey of Egypt) の会長より歓迎の手紙を郵便局で受け取った。シュトローマーは礼儀を重んじる人物であり、午後には表敬とその後の探検計画の策定をかねて、名声が高いドイツ人エジプト考古学者であるゲオルグ・シュタインドルフ (George Steindorff) の事務所を訪れた。 11月14日にシュトローマーはエジプト地質学調査委員会の沙漠調査部門を創設したジョン・ボール (John Ball) と会った。その年の内に調査委員会はエジプトの最初の地形図を出版し、翌1911年に出版する手筈だった地質図を仕上げた。いずれもシュトローマーには非常に貴重なもので、これをもとに自分の探検の目的地をほとんど知られていなかった西部沙漠地帯のバハリヤに定めて計画をすすめた。 11月15日、シュトローマーに気がかりなことが発生した。ヨーロッパ人で西部沙漠に惚れ込んで住みつき行方不明になったリヒャルト・マルクグラーフ (Richard Markgraf) のことである。マルクグラーフはカイロの南にあるシヌリスという小さな村に住んでいた。彼がシュトローマーと知り合った経緯はあきらかではない。 シュトローマーは約10年前の1901年から翌年にかけての冬にマルクグラーフに会い大変意気投合した。マルクグラーフは10年半の間シュトローマーの化石蒐集係(Sammler)をつとめ、友人になった。だがマルクグラーフは病気がちだった。その理由がマラリアなのか、腸チフスによる腸内出血か、慢性アメーバ赤痢によるのかは不明である。 ある朝、探検の計画策定になんとしてもマルクグラーフが必要だったシュトローマーは、彼がまた発症したことに頭を抱えた。それまで彼は現れず彼と連絡を取ろうにも無理だった。だが、ホテルの自室のドアを開けるとマークグラフが椅子に座っており、彼の不安は雲散霧消したという。 探検計画は三部構成だった。まずシュトローマーとマルクグラーフはカイロからワディ・エル・ナトルーン (英:Wadi El Natrun) へと北西に進路をとり、数週間この地域を探検したのちカイロへ戻り、補給の後に今度は南のルクソールへ移動しナイル川の谷の東岸斜面を探検する。 だが砂漠地帯への入域許可証の取得は困難になった。1910年にはもうドイツとイギリスの緊張は高まっており、両国は他国の世界各地におけるどんな活動にも敏感になっていた。シュトローマーはやっとのことで許可証を手に入れた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 01:43 UTC 版)
「第33SS武装擲弾兵師団」の記事における「到着」の解説
1944年11月5日、ドイツ中央部のレーン山地(Rhön)にある演習場「ヴィルトフレッケン演習場」(Truppenübungsplatz Wildflecken)で訓練中の「シャルルマーニュ」旅団に、民兵団高級指揮官ジャン・バソンピエール(Jean Bassompierre)とエミール・レイボー(Émile Raybaud)に引率されたフランス民兵団の隊員数千名が到着した。彼らは連合軍によってフランスがナチス・ドイツにのフランス占領下から解放された1944年夏以後、民衆やレジスタンスの報復から逃れるためにドイツのウルムへ避難していたが、親衛隊上層部と民兵団指導者ジョゼフ・ダルナン(Joseph Darnand)との長期にわたる会談の結果、武装親衛隊のフランス人部隊(「シャルルマーニュ」旅団)に編入されることが決定したのであった。 レジスタンスから鹵獲したステン短機関銃、スミス&ウェッソンやコルトのリボルバーを装備し、民兵団の特徴であるダークブルーの制服とベレー帽という格好で兵舎に到着した民兵団員たちは、ドイツの軍服を着ているフランス人たちに冷たく出迎えられた。ドイツ国防軍や武装親衛隊に所属し、東部戦線で戦闘経験を積んだフランス人義勇兵たちは民兵団員を見て、「まるでギャングやカウボーイだな」と嘲った。そして民兵団員は、自分たちと対面した「ドイツ人よりもドイツ人らしく見える」フランス人たちを見て不安に思った。 1943年初頭の民兵団創設から1944年夏に至るまで、フランス占領ドイツ軍と協力してマキなどのレジスタンス組織と戦ってきた民兵団であったが、ヴィルトフレッケン到着時の多くの民兵団員の態度は極めて反ドイツ的であった。宿舎に入った民兵団員は壁に掛かっているアドルフ・ヒトラーの肖像画・写真を撤去して片隅に追いやり、代わりに民兵団指導者ジョゼフ・ダルナンの写真やヴィシー政権の象徴ペタン元帥の写真とフランス国旗を飾りつけた(これを発見した演習場の職員は仰天した)。 彼ら民兵団員は武装親衛隊に編入されたものの、ヒトラーに対する忠誠宣誓はまだ行っていなかった。「シャルルマーニュ」旅団本部は宣誓式を催すに最適な日として1944年11月12日を選んだ(民兵団員からの反発に備え、クルケンベルクSS少将は懲罰小隊を編制した)。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 16:40 UTC 版)
「オハイオ (タンカー)」の記事における「到着」の解説
曳航されたオハイオはマルタ島に接近し、夜には島の沿岸砲台の援護下に入った。島から来た古い外輪曳船がオハイオを曳航しようとしてペンに衝突するトラブルに見舞われながらも、一行はゆっくりと島を回りながら、グランド・ハーバーに入港しようとしていた。その最中、沿岸砲台が浮上しながら接近しつつあるUボートを発見し、さらに地上のレーダーにSボートの一団が捉えられた。沿岸砲台が探照灯照射と砲撃によって両者を追い払ったためオハイオらは難を逃れた。ゾンカー岬を回って港口に差し掛かるところでは、今度はイギリス側が敷設した防御機雷原を通過しなければならなかった。30分間にわたってオハイオの巨体を通過させようと悪戦苦闘した後、午前6時に曳船が到着したことでなんとか一行は機雷原の間の水路を抜けることができた。未だに駆逐艦はオハイオを左右から挟み、前進と後進を繰り返して航行を助け続けていた。 8月15日午前8時、ついにオハイオはマルタ島グランド・ハーバーに入港を果たした。一行は港を埋め尽くす群衆の歓声と、ブラスバンドが演奏するルール・ブリタニアに迎えられた。メーソン船長は船橋で答礼しつつも、もはやオハイオが沈むまで一刻の猶予もないことを理解していた。 貴重な積荷の石油が失われるのを防ぐため、直ちにオハイオの船体から荷揚げ作業が開始された。協議の結果、浸水した船体のバランスを保ちながら比重差で速やかに石油を汲み出すために貨油タンクへ海水が注入されることになった。オハイオのポンプの動力は既に失われていたため、応急ポンプを用いてオハイオに接舷したイギリス海軍補助艦隊タンカーボックスオール(RFA Boxol, A107)へ石油が移されるにつれて、オハイオは浮力を失い少しずつ沈んでいった。そして最後の石油がタンクから抜き取られるのと時を同じくして、オハイオの船体は完全に着底したのだった。
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到着
出典:『Wiktionary』 (2021/08/14 13:08 UTC 版)
発音(?)
と↗ーちゃく
名詞
翻訳
動詞
活用
翻訳
「到着」の例文・使い方・用例・文例
- 到着
- 私たちの到着時刻はおよそ3時です
- 列車の到着が遅れた
- 到着時刻
- 空港には何時に到着する予定ですか
- 警察がすぐ現場に到着した
- 彼らはどんなに遅くとも7時には到着するだろう
- その橋は我々がそこに到着するまでには壊されているだろう
- 彼の到着がたまたま大切な会議と重なって,彼を出迎えに行けなかった
- 来訪者たちは午後9時に到着の予定です
- 次の電車はここに4時に到着する予定だ
- バスは3分早く到着した
- 彼女は11時ごろ到着すると思います
- 彼らは時間までに到着できないと我々は判断した
- 彼女が山頂に最初に到着した
- 列車はトロントから7時37分に到着します
- 時間通りにそこに到着するのは難しいだろう
- 飛行機はまだ到着していない
- 到着列車
- 彼は手紙でいつどのようにして東京に到着する予定かを知らせてきた
到着と同じ種類の言葉
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