19世紀の再建
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19世紀初頭、ロカマドゥールの聖域はかなり荒廃していた。大階段には草木がはびこり、ほとんどの商人はこの地を去った。3つの聖所、サン・ソヴール教会、サンタマドゥール教会、ノートルダム礼拝堂が日々の業を行っていた。サン・ミシェル礼拝堂とサン・ブレーズ礼拝堂の状態が悪く、サンタンヌ礼拝堂とサン・ジャン・バティスト礼拝堂は廃墟となっていた。サン・ソヴール教会の屋根は修復を必要とする状態で、南側に面した外壁は円蓋に降り積った瓦礫の圧力で30cmほど張り出していた。1831年に考古学者ジャック=アントワーヌ・デルポンは「あらゆる点が、この有名な礼拝堂はもう長くはないと告げている」と記している。 歴史文化財保存の政治的な試みはフランスで始まった。1830年4月13日、ロット県知事ボームは内務大臣にあてて緊急援助を要請する手紙を書いた。カイヨー修道院長によって1822年に工事費用の見積もりがなされ、目標は8500フランであった。この手紙に返事はなかった。文化財のリストはロット県により作成され、そこにはロカマドゥールの礼拝堂は優先して掲載されていた。しかし、訴訟によって台無しになり、資金は国またはロカマドゥールの自治体から付与されていなかった。 1855年初頭、カオール司教ジャン・ジャック・バルドゥは、資金調達のため規模の大きな宝くじを始めるアイデアを持っていた。内務省は、宝くじの条件として事業計画と工事のモットーを課した。県に委託された建築家が文書を作成し、予見可能な収益額は318 819,71フランであると評価した。抽選は3回行われた。1856年12月15日、1857年7月30日、1857年12月31日である。60万枚のくじが1枚1フランで発行された。しかし宝くじの収益は、事業に必要な合計額の1/4である、84 624,63フランと報告された。 カトリック教会の司祭であり、モントーバン司教座の建築家でもあったジャン・バティスト・シェルヴァは、1858年に始まった事業の指揮をとるようバルドゥ師に任命された。公的資金がなく、事業の遅延を避けるため、司教は歴史文化財委員会に対して事業について指示を仰ぐことを断った。事業には宗教建築の集まるシテとシャトーが全て含まれた。神父シェルヴァは建設の過程で多くの困難に直面した。 傾斜60度と切り立った斜面で往来が困難なため、クレーンの設置と、傾斜面上前後に2本の小さな鉄道線路を設置すること 労働者の雇用、鉄道敷設の競争 トゥールーズから機械や資材の供給が困難 土地を購入するため所有者や店主との交渉が過熱 河岸での事故や労働者の負傷。1872年8月、シェルヴァ自身が高い足場の崩壊によって負傷した。 1861年9月4日、宝くじ販売の収入が枯渇。その後収入は宗教用品を売る店の売り上げ、献金箱に入る献金、寄付金からもたらされた。 教会北側にある谷の土地の不安定性。1865年、シェルヴァ師は教会北側の谷に生じた大きな亀裂を当局に報告した。技師ビラールが問題を調査し、コミューンの泉の水源がもはや一定でないばかりか、流れの下側にあたる粘土層の土壌が水浸しであることを報告した。ロカマドゥールの自治体は1865年2月3日に起きた地滑りに対応しなかった。この地すべりでは納屋とラフォンのオーベルジュの倉庫を押しつぶし、小鉄道の線路と防御壁に達した。自治体と、巡礼の管理に対して訴訟が起こされた。1868年3月2日、技術的な論拠にもかかわらず、グルドンにおいて教会側に有罪が課され、その後1868年12月28日アジャンにおいて控訴審が開かれ、被害者への補償と擁壁の建設が命じられた。 1872年夏の終わり、大規模修復事業が完了した。
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