19世紀のモナコ
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ナポレオン・ボナパルトの敗北後の1815年のウィーン会議によってサルデーニャ王国の保護領となり、1861年にはフランスモナコ条約においてモナコの主権が確認された。ここにおいてフランスはモナコ公国の存在を認めたが、以前のモナコの国土の95%(マントンとロクブリュヌ=カップ=マルタン)がフランスに併合された。その条約後モナコの軍事防衛はフランスの責任となった。また国内においてモナコ王は絶対的な権力を誇っていた。のちの1910年のモナコの革命で、1911年に国王が憲法の発布を強制されることとなる。 モンテカルロの有名なカジノは、オテル・ド・パリを運営したSocieté des Bains de Mer (海水浴協会)により1863年に開店した。Societé des Bains de Mer からの多くの税金は、モナコのインフラ整備にあてられた。19世紀、フランスとの鉄道が敷設されるとモナコの経済はますますの発展を見せた。1918年7月、モナコに対しフランスが制限付きの保護をするというフランス・モナコ保護友好条約が結ばれ、1919年のヴェルサイユ条約の中で各国の承認を得た。この条約ではモナコの政策がフランスの政治的、軍事的、経済的利益と足並みを揃えることが示された。これは1918年におこるモナコ継承危機に端を発するものであった。
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