19世紀のダーウィン主義
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「ダーウィニズム」の記事における「19世紀のダーウィン主義」の解説
1859年以前は、ダーウィン主義はエラズマス・ダーウィンの研究に言及するときに用いられた。現在理解されている意味で用いられたのは、1860年4月のウェストミンスター・レビューでトマス・ヘンリー・ハクスリーがチャールズ・ダーウィンの研究をそう呼んだときからである。ダーウィン主義はすぐに生物学と社会学で進化の概念を指す語となった。哲学者ハーバート・スペンサーがダーウィン以前に提唱していた用語、「適者生存」と結び付けられた。もっともスペンサーの進化の理解はダーウィンのものよりもジャン=バティスト・ラマルクの説に近い。現在社会ダーウィン主義と呼ばれているものは、当時はダーウィン主義と同義だった。もう一つはフランシス・ゴルトンの用法で、文化は人々をより良くすることが出来ず、「劣った」人々は「優れた」人々に置き換えられることが望ましいとする、優生学の基盤となった。 ダーウィンの時代にはダーウィン主義という用語の明確な定義がなかった。ダーウィンの本来の理論の賛成者も、反対者もそれぞれが望む意味で「ダーウィン主義」を使用した。エルンスト・ヘッケルはドイツでダーヴィニスムスと呼ばれる概念を提唱したが、スペンサーやゴルトンと同じようにダーウィンの理論とは表面的な類似性しか持っていなかった。 ダーウィンの考えに結び付けられたこれらの概念に対する反動はすぐに広まった。1886年にアルフレッド・ラッセル・ウォレスはアメリカ全土で講演旅行を行った。ニューヨークからボストン、ワシントン、カンザス、アイオワ、ネブラスカを経てカリフォルニアまで到達した。ウォレスは「ダーウィン主義」がそれらの政治的な含意を持たないことを力説した。またウォレスは著書『ダーウィン主義』で自然選択説を擁護し、普及と理解に努めた。
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