19世紀のホーフビーバー
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「ホーフビーバー」の記事における「19世紀のホーフビーバー」の解説
1802年/1803年の世俗化により、フルダ司教領の歴史も終結した。この地域はまずオラニエ公ヴィルヘルム5世のものとなり、次いで息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世へ引き継がれた。。フリードリヒ・ヴィルヘルムは1806年にナポレオンの庇護下で新たに結成されたライン同盟に加盟することを望まなかったため、ホーフビーバーやその周辺集落を含むかつての聖界領邦フルダ司教領はフランス直轄下に置かれた。 この頃、この国の住民は大変に不幸な状態にあった。ホーフビーバーの司祭ヨーゼフ・アントン・シュミットは「Kronik aus Hofbieber anfangend mit 1788」(直訳:「1788年から始まるホーフビーバーの年代記」)に以下のように記している。 この年も、その後の年も、フルダの領邦は良くない状況にあった。城館内の調度は運び出され、大砲がビーバーシュタインに向かって移動し、建物や土地が売り払われ、(中略)人々は行軍する軍隊の宿営に耐え、特別な軍税を納め、戦闘を行い、干し草・藁・オート麦を供出しなければならなかった。多くの人が貧しくなり、子供は兵士としてプロイセンやロシア軍との戦場に駆り出された。(後略) — A. Spors、Hofbieber 1093 - 2003, p. 75 しかし特筆すべき良いこともあった。1808年にナポレオンが農奴制を廃止したため、ホーフビーバーの地域でも数多くの農民が賦役や課税から解放され、農場に固有の名前をつけることもできるようになった。 ライプツィヒの戦いは、ホーフビーバーをナポレオンから解放しただけではなかった。ナポレオンは、1813年10月16-19日にライプツィヒ近郊で敗れた後、その軍勢とともに退却した。兵士の群は、10月27日から29日にフルダ近郊やホーフビーバー地域、より詳しくはトライスバッハ付近を通った。この退却行は、たとえば追撃を阻止するために焼き払われたブットラー村の例が示しているように、平安なものではなかった。こうした処置がほとんど無益であったことは、オーストリア皇帝フランツ1世がわずか2日後の10月31日には既にフルダに到着したことが示している。諸国民の戦いとナポレオン追撃の置き土産がチフスの一種の伝染病であった。この伝染病で多くの人が亡くなった。ナポレオンに対する勝利が新たに強化された支配層にいかに重要であったかは、毎年10月18日に諸国民の戦いを記念して教会で祝祭的なミサ・ソレムニスとテ・デウムを挙行するよう通達したことにも表れている。しかしシュミット司祭によれば、この通達が実行されたのは7年間だけであった。 ウィーン会議と1814年/1815年のドイツ連邦成立に伴い、ホーフビーバーの町域全体がフルダ大公国とともにプロイセンに併合された。しかしそのわずか1年後にプロイセンは、ヘッセン選帝侯領のライン川周辺地域と領土の交換を行った。 こうした政治的変化にもかかわらず、この地域の住民にとって日常生活は何の変わりもなかった。彼らの興味は、それまでと同じく、収穫のことであった。たとえば、1816年は降水量が多すぎ不作であった。結局、飢餓と貧困がはびこった。この年には穀物やジャガイモが高騰し、その後数年は今度は低価格のために農民は苦しんだ。1830年代にはこの地域のために多くのインフラ整備が行われたが、追加の道路工事に人々は嘆きの声を上げた。 ローマ教皇ピウス7世の教皇勅書 Provida solersque(1821年)とレオ12世の大勅書 Ad Dominici gregis custodiam(1827年)によって新たに司教区が設けられた。1829年に創設されたフルダ司教区(ドイツ語版、英語版)はヘッセン選帝侯領を管轄し、したがって現在のホーフビーバーの町域もこれに含まれた。 レーン地方(ドイツ語版、英語版)の田舎暮らしの貧しさから逃れるため、1834年からホーフビーバー周辺地域の人々も北アメリカに向けて移住していった。レーン地方でもゆっくりとではあるが開発が始まった。たとえば、1830年代末にホーフビーバーを通る運河が開通し、1843年にランゲンビーバーに学校が設けられた。それにもかかわらず、この世紀の中頃のビーバータールの人々は飢えと貧困、そして時には生き延びるための闘争が日常であった。シュミット司祭は以下のように記している。 私は教区民に貧困の中でも助け合う慈悲と寛大を説いた。そして良い見本を示そうとする私の意思を神は強めてくださった。飢えた人の群れは大きく、しばしば1日300人、時にはそれ以上に達した。 — A. Spors、Hofbieber 1093 - 2003, p. 93 1848年三月革命によって引き起こされた混乱もこの町を無傷のままにはしておかなかった。特に統一と自由をめぐる戦いが失敗した後、領主がその領土で再び抑圧と禁治産宣言を振るう際、町は大量の兵士の宿営に耐えなければならなかった。シュミット司祭によれば、そうした「嫌がらせをする人々」はときに2,000人近くになった。 ホーフビーバーの19世紀後半に関する歴史上の記録はごくわずかである。この町の18世紀から19世紀の歴史に関する短いが重要な証拠であるホーフビーバーの司祭ヨーゼフ・アントン・シュミットによる「Kronik aus Hofbieber anfangend mit 1788」は、彼が亡くなった1851年で終わっており、その続きはない。19世紀や20世紀の町の生活に関するその他の資料は極めてまばらで、郷土史家による体系化が望まれる。
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