町の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 00:32 UTC 版)
「アメリカ合衆国の植民地時代」の記事における「町の生活」の解説
18世紀半ばまでにニューイングランドでは造船が主要産業になった。イギリスの王室は安価で頑強なアメリカ製船舶に目を向けることが多かった。ニューイングランドにある川の河口ほとんど全てに造船所があった。 1750年までに様々な職人、商店主および商人が成長する農民のためにサービスを提供した。鍛冶屋、車輪修理工および家具職人が地方の村に店を構え、そこで農家が必要とする商品を作ったり修理したりした。衣類、鉄製具、窓ガラスなどイングランドの製品や、砂糖や糖蜜など西インド諸島の製品を売る商店は貿易業者が開店した。これら店舗の商店主は農作物や屋根板、炭酸カリウム、樽板など地元製品と引き換えに輸入した商品を販売した。これら地方産の製品は大西洋岸の町や都市に運ばれた。企業家はこの輸送のために荷馬車道に沿って馬小屋や酒場を作った。 これらの製品がマサチューセッツのボストンやセイラム、コネチカットのニューヘイブンおよびロードアイランドのニューポートのような港町に運ばれた後、商人はそれらを西インド諸島に輸出し、糖蜜、砂糖、金貨および交換手形と取引した。彼らは西インド諸島の製品をニューイングランドの工場に運び、そこで生のサトウキビが砂糖に精製され、糖蜜はラム酒に醸造された。金や交換手形はイングランドに送られて商品と交換され、その商品が植民地に運ばれて砂糖やラム酒と共に農家に売られた。 ニューイングランドの商人には大西洋岸の豊かな漁場を利用して、大規模な漁業船隊を手当てし、収穫物のサバやタラを西インド諸島やヨーロッパに運んで利益を出す者もいた。またある商人は海岸やニューイングランド北部の河川で大量の木材を取引した。彼らは製材所を造って家屋や船舶のために安価な木材を供給した。ニューイングランドの数百の造船工は外洋航行船舶を建造し、イギリスやアメリカの商人に販売した。 多くの商人はその商品を農民に供給することで大きな富を掴み、海港都市の社会を支配するようになった。ヨーマン農家とは異なり、これら商人はイングランド上流階級の生活様式を真似て、新しいジョージア調で設計された中3階建て家屋に住んだ。これらジョージア調家屋は対称的なファサードがあり、中央のドアの両側に同じ数の窓があった。内部には家の中心を通る廊下があり、その両側に図書室、食堂、きちんとした客間、および家主の寝室といった用途を持った部屋があった。ヨーマンの家にある多目的なホールや客間とは異なり、これらの部屋はそれぞれ異なる目的のために使われた。ジョージア調家屋では、男性が主に図書室のような特定の部屋を使い、女性は大半が台所を使った。これらの家屋には二階に寝室があり、両親も子供達にもプライバシーが保たれた。
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