高速化の決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:52 UTC 版)
工事再開後も、鍋立山トンネル等の工事難航に伴い、開業も当初予定より遅れが生じていた。そのような中、1988年(昭和63年)になり、北越北線を高速化してスーパー特急を走らせる計画が運輸省から打ち出された。当時、北陸新幹線は整備新幹線問題の関係で計画凍結は解除されたものの着工されておらず、1988年(昭和63年)のいわゆる「運輸省案」では長野以南の建設を優先し、高崎 - 軽井沢間のみフル規格、軽井沢 - 長野間はミニ新幹線、糸魚川 - 魚津間、高岡 - 金沢間については構造物を新幹線と同じ規格で建設し、線路を在来線と同じ軌間にするスーパー特急方式とする計画が提案されているに過ぎなかった。 北越北線はこの時点で路盤は完成していたが、軌道敷設は行われておらず、もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、翌1989年(平成元年)5月31日に高速化・電化に伴う工事実施計画の変更が申請され、路線の軌道は、最高速度200 km/hも視野に入れた高規格路線での建設が開始された。 これにより、JRと直通の特急列車を走らせることとなり、高速化事業に要するとされた310億円は、建設に当たっていた公団の地方新線工事費から70億円、幹線鉄道活性化事業費補助金が42億円、北越急行出資金が40億円、JR東日本の負担金が158億円とされた。JR東日本の負担分は、北越北線の利用権という無形財産取得名目として実施された。 配線についても変更が行われ、当初計画では、六日町駅では北越急行専用プラットホームよりも高崎方でJRとの線路の接続を行うことになっていたが、専用プラットホームで発着する普通列車とは別に、越後湯沢からの特急列車が北越北線に直接進入できるようにする渡り線が追加されることになった。十日町駅では、JR線を乗り越した後に地上に降りてプラットホームを設ける計画であったが、プラットホーム前後に生じる急勾配と急曲線を解消するために高架上にプラットホームを設置することになった。犀潟駅では、高架でJR線を乗り越した後に海側に北越急行専用プラットホームを設ける計画であったが、信越本線の上下線の間に降りてJR線に乗り入れる構造に改めた。 設備面では、高速化の制約となる分岐器の通過速度制限を緩和するために、一線スルーにする改良を実施した。軌道を強化するため、スラブ軌道区間を延長し、レールも一部を50 kgレールから60 kgレールに変更し、道床厚の増大や枕木の追加を実施した。特急列車の最大10両編成に対応するようにプラットホームや交換駅の待避線有効長が再び延長された。信号設備は、高速進行現示のできる信号機を設置し、また自動列車停止装置 (ATS) をATS-P形とし、安全側線は省略されたままとした。このほか、ホーム柵の設置、雪害対策の強化、騒音防止などの措置が採られた。 最終的に総工費は、地方新線建設費として1026億円、高規格化255億円の合計1281億円となった。工事期間中、死者は10名、負傷者は54名であった。 この間、開業の5年前の1992年(平成4年)に路線の正式名称が「ほくほく線」に決定した。これは、北越急行と沿線自治体が沿線住民を対象に実施したアンケートから、「温かいイメージで親しみやすく、呼びやすい」という理由で選ばれたものである。異例の早い時期の路線名決定は、工事再開後もトンネル工事の遅延と高規格化工事で開業が遅れた結果である。 試運転は施設が完成した1996年(平成8年)9月から開始されたが、狭軌での160 km/h運転や狭小・単線・長大トンネルでの高速走行などは前例・基準が存在しなかったため、ほくほく線を用いた諸試験が北越急行のほか、鉄道総合技術研究所、公団、運輸省、JR東日本、JR西日本によって実施され、同年10月7日からは681系2000番台による160 km/h運転試験が開始された。結果は比較的良好ではあり特段の問題は見られず、監督官庁から設計最高速度160 km/hの認可を付与された。しかし、後述するように単線トンネルでの気圧変動が車体に及ぼすダメージが経年とともに顕在化する恐れがあったため、北越急行自らの判断でさらなる技術的な検討を待ってから実際の160 km/h運転を開始することにとし、当初の特急列車の最高速度は140 km/hとされた。
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