養殖の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 14:43 UTC 版)
現在の広島市域において発見されている縄文時代の比治山貝塚や弥生時代の中山貝塚などの貝塚ではカキの貝殻が出土していることから、広島湾では古来からカキが生息しかつ食されていたと考えられている。 現在広島カキ養殖における最古は、「天文年間(1532-1555) 安芸国において養蠣法を発明せり」と1924年(大正13年)草津村役場発行『草津案内』に記されているものになる。ただし安芸の何処か、具体的な養殖法、などまったくわかっていない。 水産庁は最古の記録として、「延宝年間(1673-1681) 草津村小西屋五郎八(小林五郎左衛門)蛤蜊等小貝養育場の周辺の竹枝に附着した牡蠣の成育状況の速なることを認め養殖法を考案」と『廣島牡蠣養殖場ニ関スル成跡書』に記している。 以下1977年広島かき出荷振興協議会刊『広島かき』でまとめられている、広島湾周辺地区における最古のカキ養殖に関連した史料を列挙する。 広島湾北側草津 : 寛文3年(1663年)「牡蠣、在安南郡海田其色白其味甘出干佐西郡草津海亦可也」(1663年『芸備国郡志』) 観音 : 文化10年(1813年)「観音広瀬村の者、牡蠣ひび差立願出るが差止めとなる」(『小川家文書』) 江波 : 宝暦5年(1755年)「江波島、仁保島村潟境争い裁許状に魚ひび建のことを記す」(『江波漁協文書』) 丹那 : 明和4年(1767年)「丹那浦、中屋伊平牡蠣ひびを試み好結果ありしより、中屋伊平外百拾八名許可を得、夫々境界をなし営業」(『26年漁業制度取調書』) 広島湾北東側仁保 : 寛永年間(1624年-1644年)仁保島渕崎の吉和屋平四郎、岩石を沈めて(石蒔)養殖を始める。のち竹木を立てて、さらに竹に特化して(ひび建)養殖を続ける。(1929年『仁保村志』) 海田 : 万治2年(1659年)「海田市で養殖場を村役場より戸毎に分当し、一戸に二間口を配当し営業」(『19年慣行届』) 矢野 : 寛永4年(1627年)和泉源蔵が矢野村大井に住み着き、雑木を立てて養殖を試み、さらに竹を立てて完全に成功し、それ以後盛んとなる(1958年『矢野町史』) 坂 : 天明元年(1781年)坂村伊豫屋利助、石蒔養殖を始める(『19年慣行届』) 広島湾西側厳島(宮島) : 嘉永元年(1848年)「厳島、浜役所にて試みに牡蠣を育養」(『19年慣行届』) 廿日市 : 文久元年(1861年)「廿日市村、牡蠣ひび場は山代政治、三輪弥助の発起にて本業と起し営業」(『19年慣行届』) .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 広島城ができる以前、比治山や仁保は島であった。比治山は築城以前、仁保は宝暦3年(1753年)以前に陸続きとなった。 ○で比治山と中山の貝塚位置を示し、草津・仁保地区のみ位置表記。草津沖へ流れ込む太田川放水路は戦後に整備されたもので、近世・近代は左図のような河川流路であった。草津の東側の観音新町は左図のとおり大正・昭和時代に埋め立てられたもので、近世の草津沖は開かれていた。 つまり江戸初期である1600年代から行われていたのは、広島湾北東側の仁保・海田・矢野、北西側の草津、になる。 広島湾北東側は海田湾と呼ばれ瀬野川・矢野川と太田川水系の猿猴川と府中大川など干潟を作る土砂・甘い水を作る淡水・餌となるプランクトンを運ぶ河川が豊富で、特に猿猴と府中大川の合流地点より南に伸びる仁保の干潟は“天然の生簀”して絶好の場所であった。ただしノリ養殖も同時に行われていた。 一方草津は他と違い江戸初期広島藩の支藩にあたる三次藩が統治したところで、かき船の大阪市場への営業免許を他地区に先駆けて受けて株仲間を結成していた。ただし草津沖は波浪を受けやすいところであるためひび建・活場開発に限界があり河川も少ないため、地理的に養殖地として不利な環境にあった。そのためカキ生産量が不足してくると仁保、更に宮島に養殖場を求めた。
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