韓国の民族主義に対する批判
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「韓国の民族主義」の記事における「韓国の民族主義に対する批判」の解説
李栄薫は、韓国の民族主義を以下のように批判している。 ある人は白頭山を天下一の名声高い中国の崑崙山の脈を正統に受け継ぐ山であると言いました。また別の人は白頭山の上から朝鮮領を見下ろし、箕子の国がささやかに広がっていると詠いました。このように李朝時代の白頭山は、性理学の自然観と歴史観とを象徴する山でした。李朝の性理学者たちは、朝鮮の文明は古代中国の聖人である箕子が東遷し建てた箕子朝鮮から始まったと信じていました。箕子朝鮮の最後の王である準王が南下し、馬韓に吸収され、その馬韓が新羅に吸収されたのですから、朝鮮の歴史の伝統が、箕子朝鮮から馬韓へ、新羅へ、高麗へ、そして李氏朝鮮へ受け継がれたというのです。李朝の歴史学はこのような箕子正統説を信奉しました。李朝時代の人々が檀君を知らなかったわけではありませんが、ぞんざいに扱い、また脇に放っておいたのです。十八世紀になると若干の変化が生じて、檀君の古朝鮮が朝鮮史の先頭を飾るようになりますが、それでも文明の正統は箕子朝鮮から出発したという既存の歴史観には変わりがありませんでした。先に見たように、白頭山をめぐり、これを崑崙山の嫡子であるとしたり、李朝を「箕子の国」であると言ったのも、すべてはそのような歴史観によるものです。そのように、李朝時代の歴史観が中国を中心とするものだったとすれば、その時代に今日と同様な民族意識が存在していたと考えるのは難しいでしょう。これに関連しては、もう一つ例をあげましょう。十五世紀の初め、世宗年間のことです。「箕子正統説」がちょうど成立した時期にあたります。当時の両班学者たちがなぜ箕子正統説を導入したのか、その理由を考えると以下のとおりです。当時は人口の三〜四割が奴婢という賤しい身分でありました。両班たちは自分たちが奴婢を思うままに支配してもよい根拠がどこにあるのかという問いにぶつかります。そこで、聖人である箕子が真っ暗な東の蛮地に来て、八条からなる禁則を下したが、その中に盗みを犯した人間を奴婢とする法があるじゃないか。だから奴婢というのはもともと聖人の教えに従わない野蛮人であり、我ら両班は聖人の教えを悟った文明人である。だから、両班が奴婢を支配するのは世の中の風俗を正そうとした聖人の思し召しである。このような論理が生み出されたのです。箕子正統説が出現する現実的な理由とはそういうものでした。そのような社会で互いに異なる身分の人間たちが、自分たちは一つの血筋でつながった運命共同体であるという意識を分かち合えたのでしょうか。私はおよそありえない話であると思っています。 — 李栄薫 李鮮馥(朝鮮語: 이선복、英語: Yi Seon-bok、ソウル大学)は、民族史観を以下のように批判している。 「5000年単一民族」が科学的・歴史的な事実ではないと言うと、激昂する人々が周囲には多い。しかし各種資料が明示するように、われわれの姓氏の中には歴史時代を通して中国や日本・ベトナムをはじめ遠近各国から帰化した人々を祖先とする事例がひとつやふたつではない。もしわれわれが「5000年単一民族」を額面どおりに信じるのならば、姓氏の祖先がもともと韓半島にいなかったことが明らかな数多くの現代韓国人たちを、今後は韓国人とみなしてはならないだろう。(中略)われわれはよく、われわれ自身を檀君の子孫と称し、5000年の悠久な歴史をもつ単一民族であると称している。この言葉を額面どおり受け入れれば、韓民族は5000年前にひとつの民族集団としてその実体が完成され、そのとき完成された実体が変化することなく、そのまま現在まで続いたという意味になろう。しかしこの言葉は、われわれの歴史意識と民族意識の鼓吹に必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的証拠に立脚した科学的で歴史的な事実にはなりえない。 — 李鮮馥 韓洪九は、韓国の民族主義を以下のように批判している。 韓国では、単一民族という神話が広く信じられてきた。1960年代、70年代に比べいくぶん減ってはきたものの、社会の成員の皆が檀君祖父様の子孫だというのは、いまでもよく耳にする話である。われわれは本当に、檀君祖父様という一人の人物の子孫として血縁的につながった単一民族なのだろうか。答えは「いいえ」です。檀君の父桓雄とともに朝鮮半島にやって来た3000人の集団や、加えて檀君が治めていた民人たちの皆が皆、子をなさなかったわけはないのですから。彼らの子孫はどこに行ってしまったのでしょうか。箕子の子孫を名乗る人々の渡来から、高麗初期の渤海遺民の集団移住にいたるまで、我が国の歴史において大量に人々が流入した事例は数多く見られます。一方、契丹・モンゴル・日本・満州からの大規模な侵入と朝鮮戦争の残した傷跡もまた無視することはできません。こうしたことを考えれば、檀君祖父様という一人の人物の先祖から始まったのだとする単一民族意識は、一つの神話に過ぎないのです。(中略)いろいろな姓氏の族譜を見ても、祖先が中国から渡来したと主張する帰化姓氏が少なくありません。また韓国の代表的な土着の姓氏であるである金氏や朴氏を見ても、その始祖は卵から生まれたとされ、檀君の子孫を名乗ってはいません。これは、大部分の族譜が初めて編纂された朝鮮時代中期や後期までは、少なくとも檀君祖父様という共通の祖先をいただく単一民族であるという意識は別段なかったという証拠です。また、厳格な身分制が維持されていた伝統社会では、奴婢ら賤民と支配層がともに同じ祖先の子孫だという意識が存在する余地はないのです。共通の祖先から枝分かれした単一民族という意思が初めて登場したのは、わが国の歴史においていくらひいき目に見ても大韓帝国時代よりさかのぼることはあり得ません。(中略)国が危機に直面したとき、檀君を掲げて民族の求心点としたのは、大韓帝国時代から日帝時代初期にかけての進歩的民族主義者の知恵でした。 — 韓洪九
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