陸上特攻
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末期に日本陸軍では戦車に対戦車地雷を取り付けて敵戦車に体当たりする戦法や、歩兵が爆弾を抱えて敵戦車に体当たりする戦法が行われることが多数あった。 戦車による対戦車特攻 日本軍戦車による対戦車特攻の実例としては、ルソン島の戦いの末期の1945年4月、第14方面軍の軍司令部の置かれていたバギオに連合軍が迫ってきた際に、司令官山下奉文大将が、司令部直轄戦車隊であった戦車第10連隊第5中隊の残存戦車3輌にアメリカ陸軍戦車部隊の侵攻阻止を命じたことから、中隊長の桜井隆夫中尉が、アメリカ軍の主力戦車であるM4中戦車と日本軍戦車の戦力差を考慮し、体当りでM4中戦車を撃退するため戦車特攻隊を編成したことがあげられる。 桜井は、丹羽治一准尉以下11名に、九五式軽戦車、九七式中戦車各1両での戦車特攻隊の編成を命じたが、その2輌の戦車には前方に先端に20kgの爆薬を装着した長さ1mの突出し棒を取付けてあるという異様な姿であった。また、2輌の戦車内に搭乗しきらなかった4名の戦車兵は、1輌に2名ずつタンクデサントすることとなったが、その車外戦車兵は各々爆雷を入れた雑嚢を抱え、手榴弾数発を腰から下げて肉弾で体当たり攻撃するつもりであった。 丹羽ら2輌に分乗した戦車特攻隊は、軍司令官山下の見送りを受けた後、バギオ近郊のイリサンまで進出すると、戦車を擬装し、アメリカ軍戦車隊を待ち受けた。17日午前9時、イリサン橋西北200mの曲がり角に差し掛かったアメリカ陸軍のM4中戦車に対して、擬装していた丹羽戦車隊が奇襲。不意の出現に慌てたアメリカ陸軍の先頭戦車は操縦を誤り50mの崖下に転落。さらに丹羽戦車隊の2両が後続車に体当り攻撃を仕掛けるため突進、M4中戦車の砲撃が丹羽が搭乗する九五式軽戦車の砲塔に命中し砲塔が吹き飛ばされたが、それに構わず2輌の日本軍戦車はそのままM4戦車に体当たりした。タンクデサントをしていた戦車兵らも、戦車の体当たり直前に戦車から飛び降り。戦車が突入すると同時にM4中戦車に体当たり攻撃をした。生き残った日本軍戦車兵は、M4中戦車から脱出しようとするアメリカ軍戦車兵に手榴弾を投擲したり、軍刀を抜刀して斬り込みした。 双方の戦車4両が爆発炎上して、その残骸がアメリカ軍戦車隊の侵攻路を妨害することとなったが、イリサン近辺の道路は狭隘であったために、戦車残骸の除去は難航、アメリカ陸軍は約1週間の足止めを受け、その間にバギオの司令部は、大量の傷病兵や軍需物資と共に整然と撤退することができた。日本の公刊戦史ではこれを「戦車の頭突き」と称している。 歩兵による対戦車特攻 日本軍歩兵は連合軍が大量に投入してきた戦車に対して、相応の距離で阻止できる速射砲や野砲といった火砲や歩兵携帯の対戦車装備(他国ではアメリカのバズーカやドイツのパンツァーファウスト、イギリスのPIATとして大戦中に使用)を十分に保有していなかったため、戦車との近接戦闘を工夫せざるを得なくなった。 さまざまな形式の対戦車挺身肉弾攻撃が行われているが、制式装備による近接攻撃としては、九九式破甲爆雷を戦車の装甲板に吸着し爆発させる攻撃があった。日本軍歩兵は九九式破甲爆雷を持って敵戦車に肉薄し、車体に磁力で吸着させると、安全ピンを引き抜いて約5秒後に爆発する仕組みとなっていた。手榴弾のように投擲して使用することもあった。装甲板に吸着できた場合、1個の爆雷で約20mm、2個の爆雷を吸着しても30mmの貫通力と、決して破壊力があるとは言えなかったが、軽戦車には十分な威力であり、ビルマの戦場では判明しているだけで1か月間で6輌のM3A3戦車が撃破され、アメリカ陸軍情報部の報告書では「最近のビルマの戦闘経験に照らして、この報告(九九式破甲爆雷による損害)は、明らかに連合軍戦車に対する日本軍の主要な脅威の1つになるだろう。」と分析していた。また破甲爆雷は、沖縄の飛行場に突入した義烈空挺隊も使用しており、航空機撃破に威力を発揮している。 1944年末、沖縄を含む南西諸島に連合軍侵攻の懸念が高まると、陸軍参謀本部後宮次長が、第32軍八原高級参謀らの各軍参謀に「わが対戦車砲は数が少なく、しかも熾烈な敵の砲撃により直ちに破壊されてしまう。貧乏人が金持ちと同じ戦法で戦えば、負けるに決まっている。そこで日本軍には「新案特許」の対戦車戦法が発案された。それは10kgの火薬を入れた急造爆薬を抱えて、敵戦車に体当たりして爆破するのだ。実験の結果によると、この10kg爆薬をもってすれば、いかなる型の敵戦車でも撃破可能である。」との特攻戦術を披歴した。第32軍は後宮の戦術を参考に、段ボール大の木箱に爆薬を詰め込んだ急造爆雷を多数準備した。やがて沖縄に連合軍が上陸してくると、日本兵はこの急造爆雷をアメリカ軍戦車のキャタピラに向けて投げつけるか、もしくは爆雷をもったまま体当たり攻撃をかけた。この特攻戦術は効果があり、激戦となった嘉数の戦いでは、この歩兵による体当たり攻撃で1日に6輌のM4中戦車が撃破され、アメリカ陸軍の公式報告書でも「特に爆薬箱を持った日本軍兵士は、(アメリカ軍)戦車にとって大脅威だった。」と警戒していた。 アメリカ軍戦車兵は、急造爆雷や九九式破甲爆雷で対戦車特攻を行ってくる日本兵を警戒し、戦車を攻撃しようとする日本兵を見つけると、優先して車載機銃で射撃したが、日本兵が抱えている爆雷に銃弾が命中すると爆発し、周囲の日本兵ごと吹き飛ばしてしまうこともあった。また、戦車内に多数の手榴弾を持ちこみ、対戦車特攻の日本兵が潜んでいそうな塹壕を見つけると、戦車のハッチを開けて塹壕に手榴弾を投げ込み、特攻するため潜んでいた日本兵を掃討している。 しかし、アメリカ軍戦車にとっての一番の脅威は対戦車特攻ではなく、一式機動四十七粍砲や九〇式野砲といった対戦車砲か九三式戦車地雷であったという。対戦車特攻で主に使用された急造爆雷は、爆風が外に広がり戦車に大きな損傷を与えないケースも多かった。他にも、刺突爆雷といって円錐状の成形炸薬弾頭を棒の先に取り付け、敵の戦車を文字通り刺突し爆発させるという兵器も開発して、実際に運用していたが効果は不明である。 対戦車特攻を含めた連携により、沖縄戦で第32軍はM4中戦車だけで、272輌(陸軍221輌 海兵隊51輌)を撃破している。
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