阿含宗からヨーガ経典へ
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「オウム真理教の歴史」の記事における「阿含宗からヨーガ経典へ」の解説
麻原への阿含宗の影響は濃厚であり、1986年の「超能力秘密の開発法」でも、阿含宗は「システム、創始者の法力は我が国で一番優れている」と称賛し、毎日の修行、入会のしやすさ、マスコミの利用、宗教の研究、創始者の念力などがその優れている理由とした。 阿含宗の前身の観音慈恵会では、因縁を変えて幸福になることが「因縁解脱」とされ、准胝観音の力を頼み、真言、陀羅尼を千日間唱える供養行を行う(千座行)。特に悩み事がある場合は「お伺い書」を出して、教祖桐山靖雄に面会し、桐山はお伺い書を透視し(因縁透視)、「御霊示」を示す。『幸福への原理』 (1957)では、我や欲を捨て、人を助け、功徳を人に施すことで宇宙の生命力と一体化し、観音エネルギーを充実させることが可能で、法華経での一念三千と説く。1970年代になると、『変身の原理-密教・その持つ秘密神通の力』 (1971)や『密教・超能力の秘密』 (1972)で、瞑想による密教・ヨーガ的な身体修行、クンダリニーヨーガ、そして大脳生理学など「新しいサイエンス」と融合した技術によって、超能力を得て超人、ホモ・エクセレンスに変身できると説いた。桐山は「科学と技術はヒトの力を無限に拡大したが、同時に、ヒトの殺戮と搾取と憎悪と闘争をも無限に増大させた。このままでは、まもなくホモサピエンスは絶滅する」といい、ヒトを改造して古い社会体系を解体させる技術によって新しい文明を作ろう、「この革命だけが全人類を破滅から救う」と説いた。その後大乗仏教を批判し、原始仏教の阿含経を重んじるようになり、1978年に阿含宗を立宗した。桐山は1974年にヨギ・バジアン(Yogi Bhajan)のアメリカ大会に出席したり、コロラド州のナローパ大学にチョギャム・リンポチェを訪問したり、1980年11月に来日中のダライラマが東京道場に来山、その写真をパンフレットなどで華々しく掲載した。1983年8月、ニンマ派ミンリン・ティチン・リンポチェによる戴冠式で桐山は僧位を授受した。1983年に桐山はクンダリニーヨーガのチャクラ説を初めて日本に紹介して日本の密教ブームを引き起こしたのは自分だと自負した。 毎年二月の「阿含の星まつり」に参加する信徒数は、1977年に5000人だったのが年々増大し、1983年には50万人と百倍になり、この急激な成長期に麻原は入信していた。麻原は入信動機として「密教・超能力の秘密」他の本を読んでと書いていた。 阿含宗内で麻原を囲むグループは、ヨガ修行を熱心に修行しており際立っていたという。朝日新聞1995年5月16日は、麻原は毎月例祭には顔を出し、本部道場へよく奉仕に来るような熱心で若い阿含宗のリーダー的存在だったと報じ、週刊朝日1995年4月7日号は84年秋に麻原は三人の阿含宗信者とともに脱会したと報じたが、桐山はこれらの報道は間違いという。他方、読売新聞1995年5月17日夕刊は、麻原は当時ほとんど姿を見せず、在籍も三ヶ月ほどで、まともな修行はしていないし、教団運営のノウハウを知るのが目的かと報道したが、桐山はこれが真実に近いという。 阿含宗からオウムに移った元信者は、阿含宗では修行を6年10年以上続けないと解脱できないとされていたが、オウムでは解脱がもっと身近だったところが魅力だったという。12年間信仰した後阿含宗を脱会した廣野隆憲は、阿含宗ではヨーガや行法の伝授は限られており、桐山が求聞持聡明法を修得したのか、またそれを伝授する意思があったのか疑っている。 阿含宗で高いレベルの瞑想法を実践できなかったことに不満を抱いていた麻原は、佐保田鶴治が訳したヨーガ・スートラを独学した。佐保田の『ヨーガ根本教典』は、阿含宗の関連企業の平河出版社から出版されており、桐山は著作で「ヨーガによるヒトの改造」を論じる際に佐保田の著作を長文引用している。麻原はヨーガ学派・サーンキヤ学派の用語を多用して、真我 (アートマン)は現象界のグナの干渉でニルヴァーナから落下して苦の世界が生じたとし、これを修行によって真我に復帰することを目指した。 麻原脱会後も桐山は、ニンマ派、シャム派、サキャ・ツァル派、カギュ派等から僧位や称号を授受しており、サリン事件後の95年、桐山は「私は、日本人として、ただ一人の、チベット仏教の法を伝える大阿闍梨なのである」とグルとしての正当性を主張した。
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