誰の言葉か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 09:27 UTC 版)
「ケーキを食べればいいじゃない」の記事における「誰の言葉か」の解説
マリー・アントワネットの言葉として引かれてきた「ケーキを食べればいいじゃない」は、その夫であるルイ16世の治世下のフランスで起こった飢饉の最中に発せられたと考えられてきた。各地でパンが不足し始めているために人々が苦しんでいると窘められて、王妃は「それならブリオッシュを食べれば良い」と返す。1931年に書かれたドイツのエーリッヒ・ケストナーによる児童書「点子ちゃんとアントン」の中にこのアネクドートは初めて現れるのだが、フランス革命の時代に君主制の反対者の側で引用されたことはなかった。後代にこの台詞が非常に象徴的な意味合いを持ったのは、革命派の歴史家が当時のフランス上流階級の人間がいかに物忘れが激しく傲慢であるかの実例を求めたときである。あるアントワネットの伝記作家は、この言葉は引用するにはいかにも都合のいいものだったということを記している。なぜなら「フランスの農民と労働者階級にとってパンとは欠くべからざる食料であった。収入に占める支出の割合が、燃料であれば5パーセントであるのに対して、パンのそれは50パーセントに達したほどだ。したがってパンに関する話題ともなればなんでも脅迫的なまでに国家的関心事となった」。 しかし、マリー・アントワネットがこの言葉をかつて語ったことがあるという記録は残されていない。最初にそれを王妃のものだとしたのはアルフォンス・カール (Jean-Baptiste Alphonse Karr) であり、1843年3月の雑誌『雀蜂 (Les Guepes)』に見ることができる。そういったマリー・アントワネットのケーキあるいはブリオッシュという伝説への異議申し立ては、主にアントワネットの実際の性格に関する議論や、フランス王家の内部証拠、言葉の出所の年代などを検証する中で行われる。例えば英語によるアントワネットの伝記として最も売れた書籍の著者、アントニア・フレーザーは2002年にこう記している。 〔「ケーキを食べればいいじゃない」〕は先立つこと100年前のルイ14世の王妃マリー・テレーズの言葉である。この台詞は無関心でものを知らない人間によるものだが、マリー・アントワネットはそのどちらでもなかった しかし、この説も信憑性に乏しい。フレーザーはマリー・テレーズ説の根拠としてルイ18世の回想録を用いているが、ルソーの『告白』が書かれたときにルイ18世はわずか14歳であり、その自伝が出版されるのはずっと後のことである。そしてその中でマリー・アントワネットには言及しておらず、有名な台詞は古い伝承にあるものだと述べられている。また家族の間では1660年代にルイ14世と結婚したスペインの王女(マリー・テレーズを指す)の言葉だとずっと信じられていた、とも書いている。したがってルイ18世もやはり他の人と同じだけ、急速に広まったルソーの本来の言葉を歪めた言説に影響を受けた記憶を語っているのである。 フレーザーが伝記のなかで指摘しているように、マリー・アントワネットは寛大な慈善家であり、耳に届く貧しい人々の惨状には心を痛めていた。したがってこの言葉はアントワネットの性格からいって大いに問題がある。こう考えると、マリー・アントワネットの発言とするのは疑わしくなる。 また、ルイ16世の在位中に本当の意味での飢饉が起こったことはなかった。深刻なパン不足が起こったのは二度だけである。一度目は王が即位する直前の数週間である(1775年の4-5月)。二度目は1788年で、この年はフランス革命の前年である。前者は小麦粉戦争 (la guerre des farines) として有名な暴動につながり、フランス南部を除く地域でこの名がついた事件が起こっているが、マリー・アントワネットは当時オーストリアにいた家族にこの暴動に触れた手紙を送っており、そこでは「ケーキを食べればいいじゃない」の精神とはまったく相容れないかのような態度がつまびらかになっている。 「不幸せな暮らしをしながら私たちに尽くす人々をみたならば、幸せのためにこれまで以上に身を粉にして働くのが私たちのつとめだということはごくごく当然のことです。陛下はこの真実を理解していらっしゃるように思います」 発言の主を巡る議論は年代というさらなる問題を抱えている。最初にルソーの著書が出版されたときマリー・アントワネットは若すぎるばかりか、そもそもフランスにいなかった。『告白』は1769年に出た本だが、マリー・アントワネットがオーストリアからヴェルサイユに行くのは1770年、14歳のときで、この若きオーストリア大公女を当時本を執筆中だったルソーが知っていたはずがなく、『告白』で述べられた「たいへんに身分の高い女性」にはなりえない 。 この言葉がマリー・アントワネットのものだということになっていく過程を辿る上で重要なのは、フランス革命が勃発する直前の時期には、この王妃が本格的に人望をなくしていたという観点である。ルイ16世と結婚したアントワネットの軽薄さやたいへんな浪費はフランスのひどい財政的な逼迫の唯一の要因としてしばしば言及された 。オーストリア人という出自を持った女性であることも、ゼノフォビアとショーヴィニズムがいまだ国政において幅をきかせていた国では大きな要因となった。事実、少なからぬ反君主制を唱える人間にとって(不正確ではあれ)マリー・アントワネットがひとりでフランス経済を悪化させたということは納得がいくことだった。だからこそ王妃には「赤字夫人」というあだ名がつけられた。くわえて反王政のリベラリストは王族やその取り巻きを攻撃する物語や記事を出版したが、そこには誇張や架空の事件、全くの嘘が含まれていた。したがって王やその妃に向けられる怒りや不満が沸き立つように高まる中で、不平を鳴らす人間が「マリー・アントワネットの口から出てきた」という話を仕立て上げたとしても全く不思議ではない。 また、別の見方をすれば、「ケーキを食べればいいじゃない」が、革命後に民衆の間の神話としてマリー・アントワネットの言葉として定着したのは、アントワネットがヴェルサイユにおける事実上最後の「たいへんに身分の高い女性/お姫様」であったためだとも考えられる。それ以前には、例えばルイ15世の娘であるマダム・ソフィーやマダム・ヴィクトワールといったフランス王家の姫君たちがこの言葉を言ったことにされたことがあった。
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