誇張の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 07:16 UTC 版)
国民や新聞社に虚偽や誇張の内容を伝える、という体制は日露戦争からあり、当時はロシア帝国に弱みを知らせないためと、外貨獲得の為に情報を統制して、日本軍が連戦連勝しているかの如くの発表をせざるを得なかった。 戦果を過大に報じたのは、意図したものだけではなく、誤認によるものもある。戦果の誤認に関し、軍令部作戦部長だった中沢佑海軍少将によれば、ギルバート諸島沖航空戦やブーゲンビル島沖航空戦における大戦果に関し、当時、連合艦隊司令部の報告から不確実を削除し、同司令部に戦果確認に一層配慮するように注意喚起していたが、同司令部より「大本営は、いかなる根拠をもって連合艦隊の報告した戦果を削除したのか」と強い抗議電信が参謀長名(福留繁中将)で打電され、結局反論できず、有耶無耶になっていった。 損害の秘匿に関しては、損害の情報が敵方に漏れると、作戦計画に影響してくるため、アメリカやイギリスでも自国軍隊の損害に関しては、あからさまにはしていなかった。 「転進」という新語によって「撤退」に換える表現は、陸軍省軍務局長の佐藤賢了少将と参謀本部第二部(情報部)長の有末精三少将が相談して合作した。大日本帝国陸軍では、退却を極度に戒めていて、将校の間では「退く」という表現を極度に嫌う空気があったためである。 開戦前の1941年から1944年までの期間、大本営発表のみならず各種の宣伝・広報に携わっていた、大本営陸軍報道部員(兼陸軍省報道部員)平櫛孝(当時陸軍少佐)は、「陸軍報道部員が愚直なほどのやぼてん人間の集まりだったということにつきる」として、 開戦初期のころ、海軍報道部平出大佐課長の「我に艦艇五百隻……」の爆弾発言が出たとき、陸軍の報道部の中では、誰もそんな「発表」があることをあらかじめ知っていたものはいなかった。「へえ……そうかね」と国民と同じく聞かされる立場で、これに対し、せいぜい、「海軍さん、ずいぶん派手にやるな」くらいのことはめいめい心の底では思っていても、皆が集ってこの宣言について検討するとか、その対策を講ずるなどの動きは全然なかった。(中略)それにつづく海軍側の圧倒的に景気のよい戦果発表に、陸軍側としては批判するどころか、打つ手もなしというのが実情であった。しかし、珊瑚海、ミッドウェーの海戦以来、陸軍報道部の海軍報道部に対する気持の持ち方に微妙な変化がでてきたことは争えなかった。もっとも、真相を知らされていないでは手の打ちようもなく、たとえ真相を知ったとしても、「海軍の発表は嘘だ」などと陸軍側で発表したりして、国民を動揺させて何になるとの考えが先に立ち、陸軍報道部側としては、無気力な老人のような事なかれ主義におわるしかなかった。 戦局が悪化するにつれ、「トラック島の空襲」「あ号作戦」におよんで、依然とした海軍側の強気に相当な反発を感じていたが、それを行動に表わすということはなかった。結論としていえば、いつも海軍報道部に先手をとられっぱなしで、陸軍側は「あれよ、あれよ」の苦汁ののまされっぱなしというのが実情であった。世論操作という点では、たしかに海軍のほうがうまかった。 と語っている。ただこういったことは別に日本特有ではなく、士気や戦略に大いに関わることから誇張方言や、虚偽報道はよくある。例えば、ナポレオンの大陸軍広報とかでも誇張表現が多かったり、ウルムの戦いで優位に進めるために新聞に虚偽報道をさせている。ドイツでもスターリングラードでの敗北からの総力戦演説までは勝っていると虚偽報道をしていたし、近い戦いだと、アルメニアとアゼルバイジャンの紛争などでもどちらの陣営も常に勝っていると報道しており、アルメニア国民は勝っていると思っていたら、いきなり、敗北し停戦した。していないのは、アメリカくらいで、第二次世界大戦時でも国民に対する義務と、知る権利から常に正確に報道していた。しかし、ベトナム戦争はその報道の自由を無制限に許したことから、プロパガンダ戦に敗れ、勝っているのに敗北したため、報道規制を行うようになっている。
※この「誇張の原因」の解説は、「大本営発表」の解説の一部です。
「誇張の原因」を含む「大本営発表」の記事については、「大本営発表」の概要を参照ください。
- 誇張の原因のページへのリンク