言忌み
『阿Q正伝』(魯迅) 阿Qの頭には数ヵ所、はげがあった。そのため阿Qは、「はげ」及びそれに近い発音の語を嫌い、さらに「光る」「明るい」「ランプ」などの言葉も、自らも使わず他人にも使わせなかった。この禁を犯す者があると、阿Qは、はげまで真っ赤にして怒った。
『続・男はつらいよ』(山田洋次) 車寅次郎は母親と会い、傷心して帰宅する(*→〔母さがし〕3)。彼を迎えるとらやの人々は、「お母さん」「お袋」などの言葉を使わないように申し合わせる。しかし、ついそれらの言葉を口にしてしまい、雰囲気を変えるためにテレビをつけると、少女が「お母さーん」と叫ぶシーンが映る。さらに隣のタコ社長が大声で、「寅さん、お袋さんに会ったんだって」と言って、やって来る。
*「鼻」という言葉を使わない→〔鼻〕3の『シラノ・ド・ベルジュラック』(ロスタン)。
『ガン病棟』(ソルジェニーツィン)26「いい傾向」 癌病棟の回診では「病状が悪化」と言ってはならず、「プロセスが昂進した」というように表現する。「癌」「肉腫」と言わず、「潰瘍」「炎症」「ポリープ」などの言葉を使う。1人の患者が「背中が痛みます。背中にも腫瘍ができたのでしょうか?」と聞いた時、担当医は「違います。それは2次的現象です」と答えた。これは嘘ではなかった。転移は、2次的現象であることに間違いないのである。
『玄怪録』5「冥府の客」 崔紹は熱病で死に、冥府へ連れて行かれた。冥府には多くの建物があり、大勢の人がいて、俗世と変わらなかった。役所の王判官が、崔紹に向かって「貴方はまだ生きていない」と言う。崔紹は意味がわからず不安に思っていると、判官は、「冥府では『死』という言葉を忌むゆえ、『死』のことを『生』と言う」と説明する。まもなく崔紹は赦免され、現世へ帰ることができた。
『サザエさん』(長谷川町子)朝日文庫版第32巻42ページ 受験生の娘を持つ家の父親が、浴室で転倒した。妻が「どうなさったの?」と聞くと、父親は「石鹸をふんづけて、両足が上にあがって、頭が下になったんだ」と答える。妻は、「『すべった』という言葉を使わないようにしているんです」と、来訪中のフネに説明する。
*「塩」という言葉を嫌い、「堅塩(きたし)」と言い換える→〔塩〕4の『日本書紀』巻25孝徳天皇大化5年3月。
『しの字ぎらい』(落語) 隠居が権助に、「『し』の字を言うな。言ったら給金をやらない。もし私が言ったばあいには、望みの物を与える」と約束する。隠居は権助に、4貫4百44文の銭を数えさせるが、権助は巧みに言い換えて『し』の字を言わないので、隠居は思わず、「しぶといやつだ」と言ってしまう。権助は4貫4百44文を得る。
★2b.逆に、特定の字を口にしたら田楽が食える、という話もある。
『寄合酒』(落語) 「田楽は、運のつくように食うものだ。『ん』の字を言った数だけ食わせてやろう」と1人が言う。皆は「みかん、きんかん、わしゃ好かん」など、「ん」尽くしの言葉遊びを始める。ずるい男が、火事の半鐘「じゃん、じゃん、じゃん」と消防の鐘「がん、がん、がん」を何度も繰り返して、たくさん田楽を取る。皆が「消防の真似をしたから、お前は、焼かずに生の豆腐を食え」と批難する。
『二人でお茶を』(バトラー) ナネットは、自らが主演するミュージカル上演の資金を出してくれるよう、叔父に頼む。叔父は「48時間、何事にも『イエス』と言わず『ノー』と言い続けたら、出資しよう」と約束する。そのためナネットは、恋人ジミーからの求婚に「ノー」と答えざるをえない。実は叔父は、株の暴落で財産を失っていたのだが、幸い他に出資者が現れたので、『ノー・ノー・ナネット』というタイトルのミュージカルを上演することができた。ナネットとジミーも、めでたく結婚した。
『猿後家』(落語) 某大店(おおだな)の後家は猿に似た顔なので、店では「猿」という言葉が禁句になっている。出入りの男が奈良の名所の話をして「猿沢の池」と言ったため、後家の怒りをかって出入り差し止めになる。男は「御寮人さんは小野小町や照手姫にそっくり」と言って後家の機嫌を取り結ぶが、「唐土では楊貴妃」というべきところ、「よう狒狒(ひひ)に似てます」と言ってしまう。
『卒塔婆小町』(三島由紀夫) 99歳の乞食老婆は、昔「小町」と呼ばれていた。かつて彼女を「美しい」と言った男たちは、今ではもうみんな死んでしまった。それゆえ老婆は、「私を美しいと言う男は、きっと死ぬ」と考える。詩人が老婆と出会い、語り合ううち、詩人の目には、老婆が20歳の美女に見えてくる。詩人は「君は美しい」と言って、倒れる。
『ファウスト』(ゲーテ)第1部「書斎」・第2部第5幕「宮殿の大いなる前庭」 悪魔が初老のファウスト博士を若返らせ、青春の快楽を与える。その結果、もしもファウストが不断の向上の意志を失って現状に満足し、「時よ止まれ。お前はいかにも美しい」と言ったら、ファウストは死に、その魂は悪魔のものになる→〔土地〕3a。
『無名抄』(鴨長明) 高松の女院(=鳥羽院の皇女妹子)の北面で菊合せがあった時、「予(鴨長明)」は「堰(せ)きかぬる涙の川の瀬をはやみくづれにけりな人目づつみは」の歌を披露するつもりで、前もって勝命入道に見せた。入道は「帝や后がお隠れになるのを『崩御』といい、『崩』は『くづる』と読む。院中で詠む歌に『くづれ』という言葉を用いてはならぬ」と指摘したので、「予」は別の歌を詠んだ。その後まもなく女院はお隠れになった。もし「くづれにけりな」の歌を出していたら、「女院崩御の前表」と取沙汰されただろう。
『沙石集』巻2-3 金持ちの主人に仕える女童(めのわらわ)は信心深く、いつも念仏を唱えていた。それで正月1日にも、給仕中につい「南無阿弥陀仏」と言ってしまった。主人は「よりによって今日、人が死んだ時のように念仏するとは縁起が悪い」と腹を立て、銭を赤く焼いて、女童の片頬に押し当てた→〔火傷(やけど)〕3。
★7.まだ現実になっていないことを、口に出して言うのは慎むべきである。
『モンテ・クリスト伯』(デュマ)3 エドモン・ダンテスの許婚メルセデスに向かって、カドルッスが「こんにちは、ダンテスの奥さん」と挨拶する。メルセデスは、「結婚前の娘を『~の奥さん』と呼ぶと悪いことが起こると言いますから、どうかメルセデスって言ってちょうだい」と頼む。まもなく船長になるダンテスを、ダングラールが「船長さん」と呼ぶ。ダンテスは「まだ船長ではないんですから、そんなふうに呼ばないで下さい。悪いことが起こるといけませんから」と言う〔*ダンテスは牢獄へ入れられ、メルセデスは他の男と結婚する〕。
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