裾野金融
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:49 UTC 版)
昭和41年(1966年)に、金融制度調査会において、競争原理の導入による金融効率化論議が行なわれ、その中で、協同組織にもとづく信用金庫を株式会社に改変して、信用金庫を資本の原理の下に大銀行に合併統合してしまおうという「滝口試案」が滝口吉亮政府委員から出された。また同様に会員組織を否定する「末松試案」が名古屋大学の末松玄六教授から出された。しかしながら、そもそも、協同組織運動は19世紀の英国において株式会社の弊害を是正するために生まれたものである。すなわち、出資額に応じて企業支配をする株式会社は株主・資本家の利益を目的とした経営が行なわれるため、労働者や消費者などの庶民は搾取され、貧富の差が拡大し、企業買収が容易なので資本の独占化が進むなどの問題があった。このため、イギリスのロッチデールにおいて、労働者が集まって、儲け主義ではなく、利用者である庶民の生活向上や相互扶助のために、一人一票の民主的な運営を行う企業組織を作ろうという理想のもとに誕生したのが協同組織の起源である[要出典](ロッチデール先駆者協同組合)。この社会運動がドイツに渡り、それを模範として、明治期に日本に導入された産業組合が信用金庫の起源である。この産業組合は「地方自治の基礎」として地方自治体が社会安定の観点から地域の有力者に設立を要請するなど公共的な役割が期待されていた。「滝口試案」はこうした協同組合運動の歴史や役割を踏まえぬ議論であり、まさに信用金庫制度存亡の危機であった。 これを知った小原は全国の信用金庫に団結を呼びかけると共に、反対の先頭に立って中央大学の川口弘教授の提案した会員組織を維持する「川口試案」を支持して、金融制度調査会で論陣を張った。 小原は「信用金庫は中小企業の金融機関だ。株式組織にすれば、大企業中心になってしまう」と激論を述べ、一転して「およそ八百屋であれ魚屋であれ、企業にはビジョンというものがあるが、滝口試案のどこに信用金庫のビジョンがあるのか、伺いたい」と問いただした。返答に窮する政府委員に対して、信用金庫設立の経緯と理念を、富山で米騒動が起こった背景から諄々と説明し、「中小企業の育成発展、豊かな国民生活の実現、地域社会繁栄への奉仕」という信用金庫の3つのビジョンについて語り、「超資本主義で事を進めるなら、いつか貧富の差が激しくなり、階級闘争が火を吹くかもしれない。平和な世の中を作るには、信用金庫の存在こそ必要ではないのか」と述べ、そして小原は最後にこう言い放った。 「富士山の秀麗な姿には誰しも目を奪われるが、白雪に覆われた気高い頂は、大きく裾野を引いた稜線があってこそそびえる。日本の経済もそれと同じで、大企業を富士の頂としたら、それを支える中小企業の広大な裾野があってこそ成り立つ。その大切な中小企業を支援するのが信用金庫であり、その役割は大きく、使命は重い」と最後をそう締めくくったのである。 これが「裾野金融論」であり、その場に居た、時の銀行局長であり後の日本銀行総裁澄田智は小原の主張にえらく感銘を受け「これは小原鐵学である」と評したという。中山素平(日本興業銀行(現:みずほフィナンシャルグループ)の元頭取、会長)なども委員会の委員は立場を超えて小原に感銘し共感し、末松教授も小原に賛同し、最終的には、小原に好意をもった澄田の翻意により、「滝口試案」は廃案となり、「川口試案」が基本となり、信用金庫制度は存続され、金融二法と呼ばれる「中小企業金融制度の整備改善のための相互銀行法、信用金庫法等の一部を改正する法律」(43法律85号)及び「金融機関の合併及び転換に関する法律」(43年法律86号)が制定された。この合併転換法は、当初、銀行が信用金庫を合併する条項しかなかったが「逆に信用金庫が銀行を合併できるような法律構成にしなければ不公平だ」と小原が真っ向から反対意見を強く主張し、小原の信金の理念を貫く姿勢はやがて時の政府も動かしたのである。そして、最終的にいずれも可能にした。今日の信用金庫があるのは小原のお陰でもあり、現在の信用金庫の礎を築いた人物ともいえる。
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