蔵敷(ぞうしき)団地(川崎市宮前区)
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東名高速道路東名川崎IC北西1 km、川崎市宮前区菅生(すがお)、犬蔵(いぬくら)に広がる住宅地区である。多摩丘陵内の約20 haに516区画の宅地が造成され、1100世帯が居住している。1962年(昭和37年)からの2年間に第一次 - 第5次まで宅地造成が許可された(造成主は、第5次が山田商事株式会社(川崎区東田町15=1964年地番変更により現在の東田町4)、それ以外は川崎市職員住宅組合(川崎区東田町1=1964年地番変更により現在の東田町7)。「働く人に安い宅地を分譲」を目的に設立された「職員用地宅地造成委員会」(在川崎の労働組合による住宅組合が主体。川崎市職員住宅組合、川崎市水道局・川崎市交通局の住宅組合、日本鋼管〈現在のJFE 〉川崎水江製鉄所住宅組合、富士通住宅組合、東芝住宅組合など)が市内各地区で発足したが、蔵敷地区造成委員会は、1961年10月19日に設立され、用地買収は地元の蔵敷不動産と施工業者の三和建設株式会社によって進められ、1961年10月には第1次用地買収契約が成立した。しかし、1962年2月に三和建設は造成工事を辞退し、新たな指名競争入札により佐野鋼材株式会社(現在のリバースチール株式会社)と契約し、1963年1月に造成工事が完成した。宅地造成委員会は、第2次工事着手にあたり新会社設立に同意した。その新会社は、三和建設で用地買収担当だった山田彰弘らによる山田商事株式会社(1963年9月設立。資本金300万円。従業員20人。)となった。ここに、宅地造成委員会が対外的業務を全て委託し、業務範囲は官公庁許認可・登記・用地買収・造成工事設計や監督の代行で宅地造成委員会に責任を持つとされた。ゆえに、宅地希望者590人からの出資金と銀行からの借入金で調達した8億6000万円は山田商事株式会社に委託された。「崖崩れや土砂の流失などの災害発生を防止することを目的」とした住宅地造成事業に関する法律(宅地造成事業法、1965年10月1日)施行以前の宅地造成等規制法に基づくいわゆる法以前団地であった。 しかし、この地域は戦後の混乱期に農地解放で作成された公図が不正確だった上に、旧陸軍の演習地だった土地と民有地との境界もはっきりしなかった。また、山田商事株式会社は地価高騰と工事費超過、急速な事業拡大に加えて経理面での杜撰さが原因で1966年12月5日に約4億5000万円の赤字を出し事実上倒産(宅地造成委員会による買収地のほかに、山田商事が独自で買った土地につき手形払いしたものの不渡、宅地造成委員会が地主に払った用地買収金を山田商事が借りた際に出した手形の不渡、山田商事の放漫経営・宅地造成許可遅れによる無理な資金操作、宅地造成委員会と協議せず工事費の追加契約を行ったものの未払、造成工事の行政指導のバラツキと法改正による当初計画の大幅変更)。そのような中で実地測量をしないまま登記を行ったり、地主への返還地未確定、山田商事から貸し金が戻らない地主の登記非協力・抵当権設定などがあり公図が現況と著しく食い違うこととなった。地区内に多数発生した不存在地が、売買や融資の担保として利用され、果ては競売にかけられる事例のほか、別の土地を見せながら架空の土地を売りつけたり私道を市道と物件説明書に表示する詐欺事件まで発生。権利上の混乱があるため、地区内の私道を市道寄付できず、何十年にわたって未舗装の砂利道のまま放置された。土地の評価が非常に低くなり、売買も思うようにできなかった上に、下水道の整備も進まず、住民は困難を強いられてきた。 住民は1980年代初頭から解決に向けて活動を開始。過去の経緯はともかく、「実際に住宅を保有し居住している事実」をもって所有権者とし、現況における境界線を採用する方向で協議に入った。不存在地の所有者に登記抹消を説得したり、利害関係者の調整に手間取りながら、一人ひとりの地権者と話し合いを進め、土地の境界画定を行ってきた。この結果、約30年がかりで和解を成立。川崎市の実施する測量費用助成を受けて、1994年(平成6年)に測量を完了させた。
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