蒲生氏郷
(蒲生賦秀 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/23 07:42 UTC 版)
蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。
注釈
- ^ ごく一部の史料には「賦綱」と書かれている。
- ^ 賦の読み方については諸説あり、「やす」(改定史籍集覧版『氏郷記』)、「ます」(幸田露伴『蒲生氏郷』)、「かす」(内閣文庫蔵写本『氏郷記』)、「ふす」(『蒲生軍記』)、「たけ」(盛岡市中央公民館蔵写本『氏郷記』)、「のり」(『藩翰譜』)などが伝わる。なお、『蒲生氏郷記』は初名は「教秀」で後に「賦秀」に改めたと伝え、現存する古文書では忠三郎の名は確認できるものの、賦秀の名が登場するのは天正10年(1582年)以降である[10]。
- ^ 信楽院にはその時に氏郷が使用した金押しの甲冑・兜・太刀の一部が伝存している。
- ^ 月日は不明であるが、6月18日から9月3日までの間とされている[17]。
- ^ これ以前は棒の先に熊の皮を巻きつけた馬印を使っていた。
- ^ 現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている
- ^ 参議であるだけではなく、石高が91万9,320石で「武家清華」である徳川・毛利に次ぎ、同じ「武家清華」である上杉・前田より大領である。氏郷も「武家清華」になった可能性がある。[50]
- ^ 共筒に氏郷自筆で「もしほたれつつ」の銘あり。これは在原行平の「わくらばに 問う人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶとこたへよ」の第4句から取っている[58]。
- ^ 但し、実枝は内府であり、宗養は永禄6年(1563年)に死去しているので、氏郷の記憶違いの可能性がある。
- ^ なお中世社会において風呂の饗応という場を概観する限り、風呂と共に茶湯や食事の用意がされることは特殊なことではない[85]。
出典
- ^ a b c d 今村, p. 115
- ^ a b c 藤田, p. 88
- ^ 佐藤信、五味文彦他『詳説日本史研究』山川出版社、2017年、227頁。
- ^ 今村, p. 10.
- ^ 池内昭一「蒲生氏郷の出自と家柄」(高橋富雄編『蒲生氏郷のすべて』新人物往来社、1998年)30頁
- ^ a b 谷, p. 10.
- ^ 藤田, p. 45.
- ^ a b c d e 今村, p. 50
- ^ a b 『文禄二年(1593年)9月18日付伊藤盛景宛書状』
- ^ 谷, p. 9-10
- ^ 今村, p. 53.
- ^ 渡辺江美子「織田信長の息女について(『国学院雑誌』89巻11号、1988年)
- ^ 和田裕弘『織田信長家臣団の女性たち』(『歴史読本』54巻4号、2009年)
- ^ 今村, p. 54.
- ^ 今村, p. 56.
- ^ 今村, p. 72.
- ^ 藤田, p. 48.
- ^ 盛本昌弘『本能寺の変 史実の再検証』(東京堂出版、2016年)の説。
- ^ a b 谷, p. 14.
- ^ 今村, p. 88.
- ^ 今村, p. 103.
- ^ 今村, p. 99.
- ^ 村川, p. 27.
- ^ 神田千里「伴天連追放令に関する一考察 : ルイス・フロイス文書を中心に」『東洋大学文学部紀要. 史学科篇』第37巻、東洋大学、2011年、65-110頁、CRID 1050282813837350016、ISSN 1347-4960。
- ^ 清水有子「豊臣秀吉政権の神国宣言」『歴史学研究』958号(2017年)
- ^ 谷, p. 16.
- ^ 今村, pp. 110–111.
- ^ a b 今村, p. 118
- ^ 今村, p. 119.
- ^ 今村, p. 16; 村川, p. 36.
- ^ 藤田, p. 103.
- ^ 谷, p. 15.
- ^ 今村, p. 151.
- ^ 今村, p. 152.
- ^ a b c 今村, p. 159
- ^ a b 今村, p. 160
- ^ 伊藤真昭「蒲生氏と豊臣政権」(初出:日野町史編さん委員会編『近江日野の歴史』第二巻 中世編 第四章第二節、2009年/所収:谷徹也 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第九巻 蒲生氏郷』(戒光祥出版、2021年)ISBN 978-4-86403-369-5) 2021年、P126.
- ^ 今村, p. 203.
- ^ 『藩史物語2』より「会津藩年表」(講談社、2010年)
- ^ 今村, p. 201.
- ^ 中西裕樹「蒲生氏郷と黒田官兵衛―右近と豊臣政権のキリシタン武将―」(同編『高山右近-キリシタン大名への新視点―』宮帯出版社、2014年)91頁
- ^ 谷, p. 19・23-24.
- ^ a b 今村 204
- ^ 『福島県史二 近世一』(1971年)
- ^ 今村, p. 193.
- ^ 高橋充「大崎・葛西一揆に関する一考察―新出の蒲生氏郷書状を手がかりに―」(『国史談話会雑誌』37号、1997年)
- ^ 高橋充「南奥羽の蒲生領の支城配置」(藤木久志・伊藤喜良編『奥羽から中世をみる』吉川弘文館、2009年)307-309頁
- ^ 小林清治『奥州仕置と豊臣政権』(吉川弘文館、2003年)361頁
- ^ 今村, p. 200.
- ^ a b 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」(『駒沢史学』80号、2013年)
- ^ 今村, p. 215.
- ^ a b 今村, p. 217
- ^ a b 宮本, pp. 15–18.
- ^ 本郷和人『戦国武将の選択』(産経新聞出版社、2015年)200-203頁
- ^ 桑田, p. 458.
- ^ 今村, p. 132.
- ^ 東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 竹茶杓(たけちゃしゃく)
- ^ 野村美術館学芸課編集 『野村美術館名品図録(新版)』 財団法人 野村文華財団、2008年4月1日、p.165
- ^ a b 桑田, p. 444頁
- ^ 桑田, pp. 444–445.
- ^ 桑田, p. 460.
- ^ 今村, pp. 25, 126.
- ^ 今村, p. 25.
- ^ 藤田, p. 176.
- ^ 谷, p. 22.
- ^ 今村, p. 158.
- ^ 今村, p. 159.
- ^ a b c 今村, p. 137
- ^ 今村, p. 175.
- ^ 今村, pp. 132–133.
- ^ H・チースリク「キリシタンとしての蒲生氏郷」(高橋富雄編『蒲生氏郷のすべて』新人物往来社、1988年、58-59頁)
- ^ 海老沢, pp. 118–119.
- ^ 海老沢, p. 166.
- ^ 海老沢, p. 119.
- ^ 海老沢, p. 168.
- ^ ヨハネス・ラウレス「高山右近と蒲生氏郷」(同『高山右近の研究と史料』六興出版社、1949年)
- ^ 宮本義己「豊臣政権の医療体制-施薬院全宗の医学行跡を中心として-」(『帝京史学』2号、1986年)
- ^ 木村徳衛『直江兼続伝』(私家版、1944年)290頁
- ^ a b c 今村, p. 218、藤田, p. 167
- ^ 今村, p. 218.
- ^ 藤田, p. 34.
- ^ 今村, pp. 129–130; 藤田, p. 51.
- ^ 今村, p. 160.
- ^ a b c “歴史コラム「会津人とゆかりの地」”. 会津若松市. 2023年11月6日閲覧。
- ^ 竹本千鶴「茶道史における「淋汗茶湯」の位置付け」(二木謙一編『戦国織豊期の社会と儀礼』吉川弘文館、2006年)
- ^ 藤田, pp. 89–90.
- ^ 今村, p. 136; 藤田, p. 50.
- ^ 藤田, p. 174.
- ^ 今村, p. 117.
- ^ 藤田, p. 81.
- ^ 今村, p. 138.
- ^ 伊藤真昭「蒲生氏と豊臣政権」(初出:日野町史編さん委員会編『近江日野の歴史』第二巻 中世編 第四章第二節、2009年/所収:谷徹也 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第九巻 蒲生氏郷』(戒光祥出版、2021年)ISBN 978-4-86403-369-5)2021年、P106-108.
- ^ 藤田, p. 168.
- ^ “ザ・AZABU 第44号”. 港区麻布地区総合支所. 2020年11月7日閲覧。
- ^ “蒲生氏郷公像”. 日野観光協会. 2022年2月7日閲覧。
[続きの解説]
- 蒲生賦秀のページへのリンク