後藤高治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/25 14:49 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 天正17年(1589年) |
改名 | 後藤高治→戸賀十兵衛尉 |
別名 | 定豊、高安、通称:喜三郎 |
主君 | 六角義治→織田信長→蒲生氏郷 |
氏族 | 後藤氏 |
父母 | 父:後藤賢豊 |
兄弟 | 壱岐守、高治 |
子 | 千世寿[1] |
後藤 高治(ごとう たかはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。六角氏、織田氏の家臣。
生涯
六角氏の重臣・後藤賢豊の次男として誕生。永禄6年(1563年)の観音寺騒動で父・賢豊と長兄・壱岐守が主君・六角義治によって討たれたため、家督を相続する。その後は父らの仇として六角氏と敵対したが、永禄10年(1567年)に和睦し、同時に六角氏式目に連署して義治の専制に歯止めをかけた。しかし、永禄11年(1568年)に織田信長の上洛で六角氏が滅亡すると、信長に降伏して臣従する。
信長のもとでは近江衆の1人として仕え、天正6年(1578年)に信長が安土で相撲大会を開くと、その奉行を務めた。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起きると主君・信長を討った明智光秀に与したために、明智氏の滅亡と共に所領を追われ、後に蒲生氏郷に仕えた。この蒲生氏仕官時代に「戸賀十兵衛尉」と名を改め(『氏郷記』)、九州平定にも参陣している。
天正17年(1589年)、京にて死去。知行3000石は11歳の子・千世寿が継いだという(『氏郷記』)。
脚注
- ^ 後に蒲生三郎左衛門。
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