科学博物館時代
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1951年(昭和26年)8月には最後の勤め先となった国立科学博物館に転勤し学芸部動物学課長となった。この間に、新属 Japonactaeon Is. Taki, 1956、イトカケガイ類の解剖、ナシボラの解剖などの論文を出したほか、構山又次郎の関東地方産貝類化石報告の再版・貝の生態・学生版原色動物図鑑・生物学実験講座・動物の事典・魚貝図鑑・原色動物大図鑑その他にも協力するなど、多数の出版物を出した。ヒザラガイ類標本も文献も再び集め、いくつかの報告を出した。1950年(昭和25年)から八丈島の貝類の調査に当たっていたが、1953年(昭和28年)8月、八丈島大潟浦でインド洋からフィリピン近海にかけて生息するチチカケガイ属 Titiscaniaの新種 Titiscania Shinkishihataii Is. Taki, 1953を採集し、記載した。昭和28年9月には日本産ヒザラガイ類目録を記憶を辿って書き、翌年(1954年)1月の貝類学会東京地方談話会で公にし、謄写刷雑誌Gloria Marisに載せた。これは日本近海で初めての発見であり、本属の第3産地であることが分かった。 また、1952年(昭和27年)夏には屋久島に採集旅行をした。1953年(昭和28年)5月には日本貝類学会創立25周年記念大会、1958年(昭和33年)11月には30周年と、何れも科学博物館で総会・標本展覧・講演・採集などの行事を行い、天皇の行幸を受けた。1958年(昭和33年)から1959年(昭和34年)にヴヰナスの編集・印刷も引き受けたが続けることはできなかった。1957年(昭和32年)4月からは東京大学の講師となり無脊椎動物分類学の講義をしたが、これは東大の停年、60歳まで続いた。なお、日本動物学会、動物分類学会、動物命名規約小委員会などの役員もしていた。 かねてから胃に異和を感じていて、1957年(昭和32年)4月診断の末、胃切除となったが、後に小腸癒着で再びその部分の切除手術を受けた。この際診察を行ったのは大越実、慈恵医大の高橋忠雄、古閑恒寿等である。この病気は致命的なものであったが、当人には知らされず、療養に努めたにも拘らず再び以前の体力に回復することはなかった。しかし本人は旅行も研究もし、意欲は最後まで盛んであった。弟、巌が1961年(昭和36年)3月中旬に西巣鴨の家を訪ねた際はこれまでより元気らしく見え、4月29日の天皇誕生日に広島放送局でラジオ対談に出たのを自宅で聞いたという葉書を送ったのが巖への私信の最後のものであった。5月中旬から麻痺が始まり急いで入院したが、担当医師のあらゆる努力も空しく5月18日午後8時15分、慈恵医大附属東京病院で昏睡のまま世を去った。屍体は石川栄世、井上敏夫らにより剖検され詳しく研究されたが肝硬変は著しかった。5月20日、西巣鴨の自宅付近で告別式を行い、博物館長・貝類学会会長・動物分類学会会長などの弔辞があった。学界に対しての寄与とともに多年生物学研究所の貝類標本の同定の世話をしていたこともあり、訃報が天皇の耳に達すると、菓子と祭粢料を受けた。また内閣からは従四位勲五等(瑞宝章)と叙位叙勲を受けた。また、貝類学雑誌の追悼の辞には、貝類学者である金丸但馬・波部忠重・中島雅男に加え、甥の花井哲郎・同期の竹脇潔・甥の師高島春雄・動物学者であり医師の吉葉繁雄・博物館の小菅貞男・教え子の一橋大学教授である岩田一男・カリフォルニア科学アカデミーのAllyn G. Smith、そして弟である滝巖がそれぞれ追悼の言葉を贈っている。
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