国立科学博物館時代
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1962年(昭和37年)、上野は両生類・爬虫類担当の学芸員として国立科学博物館に就職した。当時、国立科学博物館の昆虫担当の学芸員には中根猛彦と黒澤良彦が勤めており、昆虫の枠がなかったのである。しかし、上野は両生類・爬虫類の調査研究活動を続けることを条件に、チビゴミムシや洞窟性生物の研究を続ける許可を得ていた。 実際、両生類・爬虫類研究でも成果を残しており、1963年に出版された「原色日本両生類爬虫類図鑑」を著している。 このころには、上野は昆虫学界で凄腕研究者として注目されるようになっており、1963年までの論文の本数は88本にも及んだ。 1967年(昭和42年)8月、上野は京都大学によるマレーシアとタイと生物相調査に参加した。しかし、8月9日、タイ・チャンタブリー県での調査の際、上野は交通事故に遭い、右手を骨折してしまう。すぐにバンコクの病院に運ばれ、手術が行われた。 幸い、手術は成功したが、1ヶ月の入院を余儀なくされる。その間に、京都大学の調査団は帰国してしまった。 入院生活から解放されると、上野は3ヶ月間にわたり、腕を吊った状態で単独でタイ北部の洞窟の調査を続けたが、不自由な腕では満足な調査はできなかったという。 帰国してすぐの1967年12月にはハーバード大学のP. J. Darlingtonに客員研究員として招かれ、渡米する。Darlingtonの研究室には、南アメリカのチビゴミムシの標本が極めて充実しており、感銘を受けたと述べている。また、アメリカの洞窟も調査したほか、Darlingtonから指導を受け、議論ができたことは上野にとって大きな財産となった。 1968年(昭和43年)に帰国した。また、同年、国立科学博物館動物研究部の昆虫担当の研究員に正式に異動する。 その後はさらに研究を進め、1975年(昭和50年)には日本洞窟学会の立ち上げに参加する。 1978年(昭和53年)、「洞窟学入門 暗黒の地下世界をさぐる」を出版。日本で初めての洞窟学・洞窟生物学の入門書として知られている。 1985年(昭和60年)には「原色日本甲虫図鑑 II巻」を発行。日本の甲虫研究の金字塔であり、現在に至るまで類似の書籍が無い極めて優れた図鑑である。 1986年(昭和61年)に自ら立ち上げた日本洞窟学会の会長に就任、1987年(昭和62年)には国立科学博物館動物研究部昆虫第二研究室長に就任した。1994年(平成6年)に国立科学博物館動物研究部長に就任した後、1995年(平成7年)に退任。その後は動物研究部の名誉研究員として在籍した。 1990年代から2000年代には、日本はもちろん、中国やインドシナ半島での洞窟性・地下浅層性チビゴミムシの解明にも力を注ぎ、多数の論文を発表した。中でも、DongodytesやGuizhaphaenopsの新種などに代表される、極めて特徴的な形態を持った真洞窟性メクラチビゴミムシの研究は特筆に値する。これらの調査で、複数の新属新種を含む、多数の新種を記載し、中国のチビゴミムシ相の解明に大きく貢献した。 2011年(平成23年)に、上野の人生最後の論文が「Elytra, new series」誌(日本甲虫学会英文誌)の創刊号に掲載された。その題名は「New Blind Trechine Beetles Belonging to the Kurasawatrechus-Complex (Coleoptera, Trechinae) from Northeast Japan : II. Species from the Owu Mountains」(東北地方に産するクラサワメクラチビゴミムシ群のチビゴミムシ類 : II. 奥羽山脈に分布する種)であり、最後まで人生をチビゴミムシの研究に捧げたことが現れている。 2020年(令和2年)10月3日、日本甲虫学会ホームページで訃報が伝えられた。享年89歳だった。 国立科学博物館の特別研究員時代に上野の指導を受けた丸山宗利は、 多数の論文を添削していただくとともに、多くのことを教えてくださった師匠であり、同時に祖父のような存在でもあった。九大に就職が決まったときに自分のことのように喜んでくださったが昨日のように思いだされる。(原文ママ) とツイッターに投稿し、その死を悼んだ。
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