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石黒忠悳

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/07 01:02 UTC 版)

石黒 忠悳 いしぐろ ただのり
石黒忠悳(1897年)
生誕 1845年3月18日
江戸幕府 陸奥国伊達郡梁川
死没 (1941-04-26) 1941年4月26日(96歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1871 - 1901
最終階級 軍医総監
戦闘 佐賀の乱
西南戦争
日清戦争
除隊後 貴族院勅選議員
日本赤十字社社長
墓所 谷中霊園
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石黒忠悳
生年月日 1845年3月18日
出生地 日本陸奥国伊達郡梁川
(現福島県伊達市)
没年月日 (1941-04-26) 1941年4月26日(96歳没)
前職 軍医総監
称号 従一位
勲一等旭日桐花大綬章
子爵
子女 長男・石黒忠篤

在任期間 1902年1月25日[1] - 1920年2月27日[2]
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石黒 忠悳(いしぐろ ただのり、弘化2年2月11日1845年3月18日) - 昭和16年(1941年4月26日)は、明治時代日本陸軍軍医日本赤十字社社長。茶人。草創期の軍医制度を確立した。爵位子爵

経歴

1888年プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生と。1888年[3]。前列左より河本重次郎山根正次田口和美片山國嘉、石黑、隈川宗雄尾澤主一[4]。中列左から森林太郎武島務中濱東一郎、佐方潜蔵(のち侍医)、島田武次(のち宮城病院産科長)、谷口謙瀬川昌耆北里柴三郎江口襄[4]。後列左から濱田玄達加藤照麿北川乙治郎[4]

幼名は庸太郎(つねたろう)。父・平野順作良忠は幕府代官手代になり、奥州(福島県)の陣屋に務めているときに庸太郎が生まれた。1856年2月に元服して忠恕(ただのり)を名乗り、平野庸太郎忠恕と称したが、やがて忠徳、後に忠悳と改めた(悳は徳の古字)[5]。父母は早く亡くなり、天涯孤独となる。16歳のとき、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村(今の新潟県小千谷市)の石黒家の養子になった。私塾を開き、松代の佐久間象山に会って感銘を受けた。中山道追分宿では志士の大島誠夫と会い、親交を結んだ。江戸へ出て、幕府医学所を卒業後、医学所句読師となる。

幕府が倒れ医学所も解散し一時帰郷するが、再び東京へ戻り、医学所の後身である大学東校東京大学医学部の前身)に勤める。1871年、松本良順の勧めで兵部省に入り[6]、草創期の軍医となった。

佐賀の乱西南戦争に従軍。1887年9月に、ドイツバーデン国都カールスルーエで開催された第四回赤十字国際会議に政府委員として出席し、北里柴三郎森林太郎尾澤主一らと出逢う[7]。1890年、陸軍軍医総監に昇進するとともに、陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省医務局長(陸軍軍医・序列第一位)に就任した。日清戦争のとき、医務局長として大本営陸軍部の野戦衛生長官をつとめた。日清戦争では脚気惨害の責任が指摘されている(詳細は、日清戦争での陸軍脚気大流行を参照のこと)。戦後、台湾での脚気惨害を知る高島鞆之助陸軍大臣に就任すると、軍医制度を確立した功労者でありながら、1897年に医務局長を辞任した(事実上の引責辞任)[8]

長州閥のトップ山縣有朋や薩摩閥のトップ大山巌、また児玉源太郎などと懇意で、その後も陸軍軍医部(後年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。1901年4月17日、予備役に編入[9]。1907年4月1日、後備役[10]、1912年退官。

茶人としても知られ、况斎・况翁の号がある。1898年(明治31年)、松浦詮(心月庵)が在京の華族、知名士等と設立した輪番茶事グループ「和敬会」の会員となる。会員は、青地幾次郎(湛海)・伊藤雋吉(宗幽)伊東祐麿(玄遠)・岩見鑑造(葎叟)・岡崎惟素(淵冲)・金澤三右衛門(蒼夫)・戸塚文海(市隠)東胤城(素雲)東久世通禧(古帆)久松勝成(忍叟)・松浦恒(無塵)・三田葆光(櫨園)・三井高弘(松籟)安田善次郎(松翁)の以上16人(後に益田孝(鈍翁)高橋義雄(箒庵)が入会)で、世に「十六羅漢」と呼ばれた。

石黒忠悳が「陸軍軍医総監(中将相当)」に任命された際の辞令書(明治30年4月8日)

後に貴族院勅選議員、日本赤十字社の第4代社長などをつとめた。1895年に男爵、1920年に子爵となった。1941年、老衰のため死去[11]。没後に石黒家は襲爵手続を行わず、同年10月に華族栄典を喪失した[12]

家族

長男の石黒忠篤は東京帝国大学卒業後、農商務省に入り、穂積陳重の次女・光子と結婚、太平洋戦争終戦時の農商大臣をつとめた。

その他

  • 後藤新平の才能を見出し、愛知県病院長から内務省衛生局への採用を後押しした。そして相馬事件で後藤が衛生局長を非職となり、失脚しても長与専斎と異なり後藤を見捨てず、その後ろ盾となり、日清戦争の検疫事業を後藤に担当させることを陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に提案した。検疫事業の成果により後藤は内務省衛生局長に復職し、また児玉に認められたことが、児玉台湾総督の下で後藤が台湾総督府民政長官に起用されるきっかけとなった[13]
  • 文学研究者には森鴎外の上官として、よく知られている(両者の確執が論じられることもある)。
  • 大倉喜八郎とは古くから交遊があった。大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立に参加し、理事兼督長(現在の理事長兼校長)をつとめた。
  • 日比谷公園の開設に関わった。安寧健康上の設計を林学博士の本多静六から依頼され、洋風の公園となった。
  • 医師をめざして東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業した荻野吟子を、典薬寮出身で侍医高階経徳が経営する私立医学校・好寿院に紹介した。その後、それまで女性に開かれていなかった医術開業試験を受験できるよう内務省衛生局長であった長与専斎に紹介し、さらにみずから女医の必要性を長与に訴える等、荻野のために尽力した。のちに荻野吟子は近代日本における最初の女性の医師となった。

栄典

位階
爵位
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1878年(明治11年)12月27日 木杯一個[14]
1884年(明治17年)5月2日 木杯一個[14]
1885年(明治18年)11月19日 勲三等旭日中綬章[14][26]
1889年(明治22年)11月29日 大日本帝国憲法発布記念章[14][27]
1895年(明治28年)5月23日 勲二等瑞宝章[14][28]
1895年(明治28年)8月20日 功三級金鵄勲章[14][29]
1895年(明治28年)8月20日 旭日重光章[14][29]
1895年(明治28年)11月18日 明治二十七八年従軍記章[14][30]
1906年(明治39年)4月1日 勲一等旭日大綬章[14]
1906年(明治39年)4月1日 明治三十七八年従軍記章[14][31]
1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章[14]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)[14][32]
1919年(大正8年)2月21日 金杯一個[14]
1920年(大正9年)6月11日 金杯一組[14]
1920年(大正9年)11月1日 大正三年乃至九年戦役従軍記章[14]
1920年(大正9年)11月1日 金杯一個[14]
1921年(大正10年)3月23日 金杯一組[14]
1921年(大正10年)5月11日 紺綬褒章[14]
1921年(大正10年)7月1日 第一回国勢調査記念章[14][33]
1924年(大正13年)1月10日 御紋付銀杯[14]
1928年(昭和3年)11月10日 大礼記念章(昭和)[14]
1931年(昭和6年)3月20日 帝都復興記念章[14][34]
1934年(昭和9年)2月1日 御紋付銀盃[14]
1934年(昭和9年)4月29日 昭和六年乃至九年事変従軍記章[14]
1934年(昭和9年)4月29日 金杯一組[14]
1936年(昭和11年)12月24日 旭日桐花大綬章[14]
1940年(昭和15年)8月15日 紀元二千六百年祝典記念章[35]
外国勲章等佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1895年(明治28年)7月30日 大清帝国 第二等第二双竜宝星中国語版[14][36]
1897年(明治30年)6月11日 ロシア帝国 神聖スタニスラス星章付第二等勲章英語版[14]
1908年(明治41年)1月20日 プロイセン王国 赤十字第三等記章[14]
1910年(明治43年)6月6日 大韓帝国 李花大勲章[14][37]
1919年(大正8年)4月5日 支那共和国 一等文虎勲章中国語版[14]
1923年(大正12年)6月7日 ポーランド共和国 ポルスキー勲章グランクロア[14][38]
1927年(昭和2年)10月31日 ドイツ国 赤十字第一等名誉章[14]
1934年(昭和9年)3月1日 満州帝国 大満洲国建国功労章[14]

著書

石黒の懐古談を坪谷水哉らが編さんした。文庫版は小松宮彰仁親王(日本赤十字社初代総裁)、乃木希典などに関する記事(全体の7分の1弱)や、漢詩・図版が削除されている。

脚注

  1. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、11頁。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、29頁。
  3. ^ 石黑忠悳『懷舊九十年』博文館、1936年、241頁。(ページ番号記載なし)
  4. ^ a b c 石黑忠悳『懷舊九十年』博文館、1936年、242頁。(ページ番号記載なし)
  5. ^ 『懐旧九十年』岩波文庫、P52、p65。
  6. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、98頁。 
  7. ^ 森鷗外と医学留学生たちの交流山崎光夫、日本医史学雑誌 第55巻第1号(2009)
  8. ^ 石黒自身は「円満辞職」としている。『懐旧九十年』、341-342頁。
  9. ^ 『官報』第5334号、明治34年4月18日。
  10. ^ 『官報』第7180号、明治40年6月7日。
  11. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)3頁
  12. ^ 『官報』第4442号、昭和16年10月28日。
  13. ^ 駄場裕司『後藤新平をめぐる権力構造の研究』南窓社、2007年、73-79頁。ISBN 978-4-8165-0354-2
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av 石黒忠悳」 アジア歴史資料センター Ref.A06051181100 
  15. ^ 『太政官日誌』明治5年、第29号
  16. ^ 『太政官日誌』明治6年、第96号
  17. ^ 『太政官日誌』明治6年、第152号
  18. ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
  19. ^ 『官報』第2187号「叙任及辞令」1890年10月11日。
  20. ^ 『官報』第3893号「叙任及辞令」1896年6月22日。
  21. ^ 『官報』第5390号「叙任及辞令」1901年6月22日。
  22. ^ 『官報』第8415号「叙任及辞令」1911年7月11日。
  23. ^ 『官報』第2692号「叙任及辞令」1921年7月21日。
  24. ^ 『官報』第533号「叙任及辞令」1928年10月3日。
  25. ^ 『官報』第4290号「叙任及辞令」1941年4月30日。
  26. ^ 『官報』第718号「賞勲叙任」1885年11月20日。
  27. ^ 『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。
  28. ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
  29. ^ a b 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  30. ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  31. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  32. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  33. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  34. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  35. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  36. ^ 『官報』第3629号「叙任及辞令」1895年8月3日。
  37. ^ 『官報』第8101号「叙任及辞令」1910年6月24日。
  38. ^ 『官報』第3258号「叙任及辞令」1923年6月11日。

参考文献

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

関連人物

外部リンク

ウィキソースには、日本赤十字社録事(1920年6月26日官報)の原文があります。

公職
先代
長与専斎
中央衛生会会長
1902年 - 1920年
次代
北里柴三郎
先代
長谷川泰
日本薬局方調査会長
1902年 - 1906年
次代
長井長義
軍職
先代
石坂惟寛
陸軍軍医学舎長
陸軍軍医学校長
1888年 - 1890年
陸軍軍医学舎長
1888年
次代
足立寛
校長心得
先代
(新設)
陸軍衛生会議議長
1888年 - 1890年
次代
石坂惟寛
その他の役職
先代
花房義質
日本赤十字社社長
1917年 - 1920年
次代
平山成信
先代
(新設)
大橋図書館
1902年 - 1917年
次代
坪谷善四郎
先代
渡辺洪基
大倉商業学校督長
1901年 - 1906年
次代
立花寛蔵
校長
日本の爵位
先代
陞爵
子爵
石黒(忠悳)家初代
1920年 - 1941年
次代
栄典喪失
先代
叙爵
男爵
石黒(忠悳)家初代
1895年 - 1920年
次代
陞爵



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