知念地区の収容所
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沖縄島南部の住民や、南部に避難していた住民は、日本軍第32軍が首里から南部に撤退したことにより、さらに膨大な数の民間人をまきこむ戦闘となる。米軍は5月中旬には既に首里・与那原戦線の崩壊を予測し、さらに大量の民間人を収容する必要があるとして、知念半島の占領が完了すると同時に速やかに収容所を設立する計画を立てていた。 その後、米軍は6月5日に知念半島に到達し、稲嶺、屋比久、当山、百名に民間人収容のためのキャンプ(収容所)が設営され、6月5日から10日にかけて13,285の民間人が陸軍によって移送された。第7歩兵師団が散布した投降ビラの一例が報告書に記録されている。 「 みなさんがこのまま戦闘地域に居続けると、生命の危険にさらされ続けます。米国政府は、佐敷村屋比久及び玉城村百名に民間人収容所を設立しました。戦闘部隊に属していない皆さんがちゃんと保護されるように、これらのルールに従ってください。1. 直ちに屋比久または百名のどちらか近い方に向かってください。2. 毛布と調理器具を持参してください。我が軍は、自由に使える十分な食料、水及び医療用品を持っています。3. 夜間の移動は危険なので、昼間の時間帯にだけ移動してください。(後略) 」 —7th Infantry Division - G-2 Periodic Reports (Nos. 62 - 92) - Ryukyus (Jun - 1 Jul 1945) [001/005] 米軍が百名は安全地帯だと呼びかける一方、6月20日、日本兵と共に摩文仁の海岸に追いつめられていく民間人は投降するにも命がけの状態におかれていた。 「 20日、海岸の絶壁へ逃げる。上半身はだかの米兵のはだが赤く見えました。数百メートル先の丘には米兵の列が見えるが、タマは来ない。『戦争は終わりました。降服しなさい。男はふんどし1枚、女は着のみ着のまま百名知念へ行きなさい。安全な衣食住が与えられます』と米軍が放送します。上着をぬごうとした男を兵隊が日本刀でたたき切りました。『きさまはスパイだ』と叫びながらなおもずたずたに切り裂きます。もう1人の男が上着をぬいで逃げた。この男もたたき切られました。私は身動きもできず、声も出ませんでした。 」 —榊原昭二『沖縄・八十四日の戦い』新潮社版 1983年 p. 189 米軍の報告書は、南部で収容した民間人の身体的状況がこれまでのどの時点よりも深刻であるとして、衛生兵などの人員を増員要請したことを記録している。 「 南部で収容された民間人は以前に見られたどの状態よりも身体的にひどく深刻な状態にあった。少なくとも収容された民間人の30%が何らかの医学的治療を必要とし、数百というストレッチャーが緊急治療のために百名に運び込まれた。… 部隊は6月10日から6月30日まで、部隊は合計28,194人の民間人を集め、事実上すべての収容者が知念半島に退避させられた。 」 —Okinawa Campaign XXIV Corps Action Report, April 1, 1945 – June 30, 1945 増大する収容人数の数に米軍の食糧備蓄も圧倒的に不足し、多くの避難民が飢餓とマラリアに苦しんだ。調査によると、米軍の読谷村出身者だけでも知念半島周辺で64名亡くなっている。栄養失調や餓死などが原因とみられており、知念半島の収容施設も、その他の収容所と変わらず、ネズミやカエルすら食さねば生きることができないほどであった。沖縄戦を生きのびても続く相克と深い心の傷は、いつまでも人々の心を苦しめた。 「 祖母との再会に比嘉さんらは喜んだが、祖母は足をけがしていた上、戦場の恐怖や避難による疲労、栄養失調などが重なったためか、意味不明な言動を繰り返したという。・・・ 祖母は数日後、マラリアにかかって亡くなった。比嘉さんもマラリアにかかったが、親族がネズミやカエルなどを捕まえて食べさせ、一命を取り留めた。 」 —琉球新報「沖縄戦から73年、置き去りにした少年どこに…」 北西部の収容所への移送 増大する収容者に苦慮した米軍は、収容者を次々と北西海岸の収容所に移送した。南部で米軍に集められた民間人はいったん知念半島の百名収容所などに送られ、そのまま百名収容所に収容される場合もあれば、辺野古の大浦崎収容所など北西部の収容所などに送られることもあった。移送先はさらに粗悪な状態で、多くの収容者が亡くなった。 「 六時頃に、みんなはトラックで具志頭の小学校に集められました。そこには、何百人という大勢の避難民が集まっていました。私たちは具志頭小学校に一泊して、そこから富里に移されて、二泊してから、歩かされて百名(収容所)の原っぱにつれて行かれ、百名に一泊、その後、佐敷村の富祖崎という部落に一か月間ぐらいいました。富祖崎は戦争の痕跡がなく、家も畑もそのままでした。罐詰とカンパンだけの配給で、避難民は農業をしても、大勢でしたから、食糧難でした。それから避難民は一括に馬天港からアメリカの船に乗せられ、国頭の大浦湾に送られたんです。大浦湾の長崎 (註・現在のキャンプシュワブ管理区域) ですね、そこから大川 (久志村) に移されました。大川というところは、食べ物が何もないんですよ。米軍の配給といったら、赤いザラザラした砂糖だけでした。砂糖は飯盒の蓋一杯が一人分でした。砂糖と水だけですから、みんな下痢をして、栄養失調になって、痩せこけていましたよ。山にあるフーチバー (よもぎ) や野草などを取って食べていました。あそこは大へんなところでした。山の側にテントを張ってあるんですけど、テントの側までカラスが来るところなんですよ。年寄りや子供たちは、つぎつぎと死んでいました。 」 —東風平村出身の女性の証言(沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)より) 「大浦崎収容所」を参照
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