知念地区の収容所とは? わかりやすく解説

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知念地区の収容所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 06:33 UTC 版)

百名収容所」の記事における「知念地区の収容所」の解説

沖縄島南部住民や、南部避難していた住民は、日本軍32軍が首里から南部撤退したことにより、さらに膨大な数の民間人まきこむ戦闘となる。米軍5月中旬には既に首里与那原戦線崩壊予測し、さらに大量民間人収容する必要があるとして、知念半島占領完了する同時に速やかに収容所設立する計画立てていた。 その後米軍6月5日知念半島到達し稲嶺、屋比久、当山百名民間人収容のためのキャンプ収容所)が設営され、6月5日から10日にかけて13,285民間人陸軍によって移送された。第7歩兵師団散布した投降ビラ一例報告書記録されている。 「 みなさんこのまま戦闘地域居続けると、生命危険にさらされ続けます米国政府は、佐敷村屋比久及び玉城村百名民間人収容所設立しました戦闘部隊属していない皆さんがちゃん保護されるように、これらのルールに従ってください1. 直ちに屋比久または百名どちらか近い方に向かってください。2. 毛布調理器具持参してください我が軍は、自由に使える十分な食料及び医療用品持ってます。3. 夜間の移動危険なので、昼間の時間帯にだけ移動してください。(後略) 」 —7th Infantry Division - G-2 Periodic Reports (Nos. 62 - 92) - Ryukyus (Jun - 1 Jul 1945) [001/005] 米軍百名安全地帯だと呼びかける一方6月20日日本兵と共に摩文仁海岸追いつめられていく民間人投降するにも命がけの状態におかれていた。 「 20日海岸絶壁逃げる。上半身はだかの米兵のはだが赤く見えました数百メートル先の丘には米兵の列が見えるが、タマは来ない。『戦争終わりました降服しなさい。男はふんどし1枚、女は着のみ着のまま百名知念行きなさい。安全な衣食住与えられます』と米軍放送します。上着をぬごうとした男を兵隊日本刀でたたき切りました。『きさまはスパイだ』と叫びながらなおもずたずたに切り裂きます。もう1人の男が上着をぬいで逃げた。この男もたたき切られました。私は身動きもできず、声も出ませんでした。 」 —榊原昭二沖縄八十四日戦い新潮社1983年 p. 189 米軍報告書は、南部収容した民間人身体的状況これまでのどの時点よりも深刻であるとして、衛生兵などの人員増員要請したことを記録している。 「 南部収容され民間人以前見られたどの状態よりも身体的にひどく深刻な状態にあった少なくとも収容され民間人30%が何らかの医学的治療を必要とし、数百というストレッチャー緊急治療のために百名運び込まれた。… 部隊6月10日から6月30日まで、部隊合計28,194人の民間人集め事実上すべての収容者知念半島退避させられた。 」 —Okinawa Campaign XXIV Corps Action Report, April 1, 1945June 30, 1945 増大する収容人数の数に米軍食糧備蓄圧倒的に不足し多く避難民飢餓マラリア苦しんだ調査によると、米軍読谷村出身者だけでも知念半島周辺64亡くなっている。栄養失調餓死などが原因とみられており、知念半島収容施設も、その他の収容所変わらずネズミカエルすら食さねば生きることできないほどであった沖縄戦生きのびても続く相克と深い心の傷は、いつまで人々の心を苦しめた。 「 祖母との再会比嘉さんらは喜んだが、祖母は足をけがしていた上、戦場恐怖避難による疲労栄養失調などが重なったためか、意味不明言動繰り返したという。・・・ 祖母数日後マラリアかかって亡くなった比嘉さんマラリアかかったが、親族ネズミカエルなどを捕まえて食べさせ、一命取り留めた。 」 —琉球新報沖縄戦から73年置き去りにした少年どこに…」 北西部収容所への移送 増大する収容者苦慮した米軍は、収容者次々と北西海岸収容所移送した。南部米軍集められ民間人はいったん知念半島百名収容所などに送られそのまま百名収容所収容される場合もあれば、辺野古大浦崎収容所など北西部収容所などに送られることもあった。移送先はさらに粗悪な状態で、多く収容者亡くなった。 「 六時頃に、みんなはトラック具志頭小学校集められました。そこには、何百人という大勢避難民集まっていました私たち具志頭小学校一泊して、そこから富里移されて、二泊してから、歩かされて百名(収容所)の原っぱにつれて行かれ百名一泊その後佐敷村の富祖崎という部落一か月間ぐらいいました。富祖崎は戦争痕跡がなく、家も畑もそのままでした。罐詰カンパンだけの配給で、避難民農業をしても、大勢でしたから、食糧難でした。それから避難民一括に馬天港からアメリカの船に乗せられ国頭大浦湾送られたんです。大浦湾長崎 (註・現在のキャンプシュワブ管理区域) ですね、そこから大川 (久志村) に移されました。大川というところは、食べ物何もないですよ。米軍配給といったら、赤いザラザラした砂糖けでした砂糖飯盒一杯一人分でした。砂糖だけですから、みんな下痢をして、栄養失調になって痩せこけていましたよ。山にあるフーチバー (よもぎ) や野草などを取って食べていました。あそこは大へんなところでした。山の側にテント張ってあるんですけどテントの側までカラスが来るところなんですよ。年寄り子供たちは、つぎつぎと死んでいました。 」 —東風平村出身女性証言沖縄県第9巻1971年琉球政府編)および沖縄県第10巻1974年沖縄県教育委員会編)より) 「大浦崎収容所」を参照

※この「知念地区の収容所」の解説は、「百名収容所」の解説の一部です。
「知念地区の収容所」を含む「百名収容所」の記事については、「百名収容所」の概要を参照ください。

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