発展と自立
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1318年のアルブレヒト2世の死後、ゲッティンゲンはオットー1世(寛大公、1344年没)を経てエルンスト1世(1367年没)が継いだ。彼に統治されたゲッティンゲン侯領はブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領の部分領邦であったが、ゲッティンゲン侯領はヴェルフ家の領邦の中で経済的に最も貧しかった。 エルンスト1世の後継者オットー1世(ブラウンシュヴァイク侯として1世、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公としては3世、1394年没)の下でゲッティンゲンは自立した都市としての立場を強固にすることに成功した。"Quade"(乱暴者)とも呼ばれるオットー1世の憎悪は都市に向けられていた。隆盛を誇るその力は彼にとって目の上のたんこぶであったのだ。このため彼の統治は絶え間ないフェーデと外交上の衝突の連続であった。ゲッティンゲン市は、最初は激しい圧迫を受けたものの、最終的にはこれを回避することに成功し、統治権をさらに強化してゲッティンゲンの自立を勝ち得た。市門の前にあったリューネブルク公のライネベルク裁判所はゲッティンゲン市の干渉化に置かれ、1375年にはオットー1世によって市に抵当として入れられた。 両者の確執は1387年4月の戦いがピークであった。ゲッティンゲン市は市壁内にあったリューネブルク公の城を攻略し、オットー1世は報復に周辺の村を荒廃させた。7月に市民らは傭兵隊長モリッツ・フォン・ウスラーの指揮下、ロスドルフとグローネとの間で野戦におよび、リューネブルク公軍に勝利したのである。この結果、オットー1世は1387年8月にゲッティンゲンの所領と周辺地域の自由特権を認めざるを得なくなった。1387年はゲッティンゲンの歴史において重要な中間点となったのである。オットー1世の死後、後継者であるオットー2世(隻眼公)の下でゲッティンゲンは自立性をさらに拡大した。オットー2世の死によってブラウンシュヴァイク=ゲッティンゲン家が断絶した。公的な遺産問題と生前の1435年に退位したため、領主の権力はますます不安定なものとなっていた。 その後15世紀の終わりまで、ヴェルフ家の領主権の有り様はその影響力の低下を特徴とする。ゲッティンゲンは自由帝国都市ではなくブラウンシュヴァイクの支配下にずっと留まっていたのだが、重要な自治権を勝ち取ることができ、時には帝国都市として文献に記録されたり、特別に重要な帝国議会に招かれたりした。 オットー2世の死後、何度もの宮廷分割や領主変更の末、エーリヒ1世がカレンベルク=ゲッティンゲン侯領として統合して統治することになった。市は初め、新しい領主に対して忠誠を誓うことを拒否した。これに対してエーリヒ1世は、1504年に皇帝マクシミリアン1世を介してゲッティンゲンに対する帝国アハト刑を実現させたのである。絶え間ない緊張関係は市の経済的衰退をもたらし、1512年に市はついにエーリヒ1世に対する忠誠を誓った。その後まもなくエーリヒ1世と市との関係は独特の穏やかさが特徴となった。さらにその後エーリヒ1世は市に資金を頼らざるを得ない関係に陥った。 中世後期におけるゲッティンゲンの政治的・一般的飛躍の基盤は、向上を続ける市の経済的地位にあった。それは特に、古くから重要な南北を結ぶ通商路であるライネ川沿いの平地という交通の便がよい立地条件によってもたらされたものであった。この条件が地元の経済因子である織物生産を助長した。ゲッティンゲンのギルドの内部サークルに属したライネ織り(亜麻布)の他、ノイシュタットには毛織物産業もあった。加工用の羊毛は市の周辺から持ち込まれた。そこには、一時は最大3000頭の羊と1500頭におよぶ子羊がいた。毛織物はオランダへ、あるいはリューベックを経由して各地に輸出された。1475年から新たに専門家が募集され、この地場織物産業は盛んになっていった。このいわゆる「ノイエン・ヴォレンヴェーバー」(新毛織職人)は新しい、それ以前には使われなかった技術をゲッティンゲンにもたらし、その後三世代にわたって輸出を主体とした織布工の都市としての地位を固めた。しかし16世紀末になると安価なイギリス製毛織物に対抗できなくなり、ゲッティンゲンの毛織物産業は衰退していった。 リューベックとフランクフルト・アム・マインとを結ぶ重要な交易路沿いの交通の便がよい立地条件からゲッティンゲン商人も利益を上げていた。ゲッティンゲンの市場は領域を超えて重要であった。1年に何度も開かれる市場のために多くの外国人貿易商がゲッティンゲンを訪れた。ゲッティンゲン市場に商品を供給する広域商人や地域を越えた企業体で通過貿易を営む貿易商は、ゲッティンゲンにも多くの財産を所有していた。 ゲッティンゲンはハンザ同盟にも参加していた。この街は1351年に初めハンザ会議に出席した。しかしハンザ同盟との関係は大きな距離を保っていた。内陸都市であるゲッティンゲンは、ハンザ同盟の機能的な経済網は利用したいのだが、同盟共同体の政治に関わるつもりはなかったのである。ハンザ同盟の正式な会員となったのは1426年になってからで、1572年には最終的に退会している。
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発展と自立
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1989年、会則を「いかなる権力、権威にも盲従せず、歪曲された歴史観を排除し、市民の立場から日本の古代史の真実の姿を公正に研究する」と改正した。同年刊行の第11集から、雑誌『市民の古代』のタイトルから「古田武彦とともに」の副題が削除された。千歳竜彦 ・丸山晋司 等、古田説の枠におさまらない研究者が育ちつつあった。 1991年、昭和薬科大学諏訪校舎で6日間にわたり開催された「古代史討論シンポジウム”邪馬台国”徹底論争」を後援。 同じ頃、京都大学文学部の学生が学校祭で古田武彦を講師に講演会を開催。雑誌『市民の古代』の編集に参画するようになり、関西では「古事記・日本書紀を読む会」「続日本紀を読む会」 等の例月研究会活動が活発になる。 1992年、会員が800名を超える。 1993年には京都で、翌94年には大阪で、2日間にわたる全国研究集会を開催する。 1993年、季刊『邪馬台国』で「東日流外三郡誌」偽書説が大特集されると、早くから偽作の疑いを示していた齋藤隆一 、ついで昭和薬科大学で古田の助手を務めていた原田実らが偽書説を展開し、市民の古代研究会の幹部級の有力会員の間では偽書説が主流となる。
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