用語「回復領」の起源と普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 21:16 UTC 版)
「回復領」の記事における「用語「回復領」の起源と普及」の解説
「回復領」は、第二次世界大戦後に、ポツダム協定に基づいてポーランドに併合されたドイツの東方領土を指す表現として創り出され、公式に用いられたプロパガンダの用語であった。その根底にある考え方は、戦後のポーランドを、中世のピャスト朝ポーランド王国の継承者と位置づけ、さらに、戦後の国境線に適合する民族的に均質な国家とみなす単純化をして、後年のヤギェウォ朝ポーランド(1386年 - 1572年ないし1596年)のような、多民族国家として東方に広がった姿を否定するものであった。戦後のポーランドが、ヤギェウォ朝ではなくピャスト朝を持ち上げた理由のひとつは、ソ連のスターリンがカーゾン線からの撤退を拒否する状況の下で、他の連合諸国が、ポーランドを満足させるためには代わりにドイツの領土を与えてもよいと考えていたという事情があった。旧ドイツ領土を、いわば補償として、ポーランドに与えるという元々の議論は、やがて、当該地域が実際に「かつてのポーランド領」であるという議論によって補強されるようになった。ピャスト朝時代が強調されたのは、ポーランド人たちが多民族国家ではなく民族的に均質な国家の創設を望んだためでもあった。さらに、ピャスト朝がポーランドをドイツ人から護ったと認識されていたのに対し、ヤギェウォ朝の対抗した相手が興隆途上のモスクワ大公国だったことは、ソ連の影響下に置かれた戦後ポーランドの状況の中で持ち上げるには、ふさわしくない要素であった。ポーランド人民共和国政府も、ポーランド労働者党も、いにしえのピャスト朝の領土に基づいたポーランド国家という理念を支持し、小農や国家主義者など戦前からの反対勢力を押さえ込んだ。実際、回復領をめぐる問題は、当時のポーランドの共産主義者たちと、それに対抗する民族主義者たちを分断しない、数少ない論点のひとつであり、西部国境に関して両陣営の意見は一致していた。地下出版されていた、民族主義派の反共新聞さえもが、「ドイツ化に終止符を打ち、東方への衝動を永遠に断ち切るため」として、ピャスト朝時代の国境を要求した。これによりポーランドは歴史上初めて、ポーランドを母語とする人々による、文化的にきわめて均質な国家となり、多民族社会に由来した国内の様々な社会対立は根元から取り除かれた。いっぽう、ポーランドの社会には共産主義派にも民族主義派にも与しない第三の勢力が存在した。それはポーランド伝統の穏健主義の勢力であり、ロンドンのポーランド亡命政府がそれを代表した。彼らは地下教育ネットワークを構築し、「固有の領土」という公式な民族主義的歴史認識に対抗して、国民に正しい歴史認識を教え続けた。彼らはポーランド自由大学協会を設立して秘密通信教育や秘密移動図書館などの事業を続け、1970年代の終わりには「空飛ぶ大学」を設立運営して「固有の領土」論が陳腐なものであり、西方領土は人々が強制移住させられ現にそこに住んでいるという現実に鑑み法的に粛々と解決すべき問題であること、それにはヨーロッパ全体の平和な社会統合・経済統合が前提となることが教えられた。 共産主義体制側による「ピャスト朝の領土の回復」という見解のプロパガンダには、大きな努力が払われ、カトリック教会も活発にこれを支援した。この歴史観の普及には、学術にも責任があった。1945年、西方研究所(pl:Instytut Zachodni、en:Western Institute)が創設され、学術活動を調整するようになった。初代所長のジグムント・ヴォイチェホフスキ(pl:Zygmunt Wojciechowski、en:Zygmunt Wojciechowski)は、その使命について「我々は、いわゆる客観的な歴史編纂を目指してはいない。我々の使命は、何世紀にもわたるポーランドの歴史を提示し、その各世紀についての現在の政治的現実を、歴史的背景の上に投影することである。」と述べていた体制側に属する歴史学者、考古学者、言語学者、美術史家、民族学者らが学際的に恊働して、新たな国境線の正当化に取り組んだ。彼らの知見は、無数のモノグラフや学術誌、教科書、旅行ガイド、放送、展覧会などによって、普及が推し進められた。ピャスト朝の初期の王侯たちの時代のポーランドの版図を示す公式の地図も、新たな国境線と整合するように描かれた。ノーマン・デイヴィスによれば、戦後の若い世代は公式教育によって誘導され、ポーランド人民共和国の領域は何世紀にもわたってポーランド国民が発展させてきたものであると思い込むように仕向けられたという。公教育において戦後世代はさらに、外国人によって長期間占領されることはあっても、あるいは、政治上の国境が移動することがあっても、ポーランド人の「祖国」は常に同じ場所にあり続けたのだと教えられていた。公教育における歴史認識は、ポーランド人は、歴史のいつの時代においても「回復領」に定住する奪われることのない絶対的かつ必然的な権利を持っており、他の優越する勢力によってその権利行使が妨げられることはあったとしても、権利は存在したとするものであった。 回復領の大部分は、何世紀にもわたってプロイセン〜ドイツの支配下にあったが、戦後のポーランドの公教育においては、こうした歴史的な出来事は、「郷土」史ではなく、「外国」史の一部であると認識されていた。ポーランドの学者たちは、中世のピャスト朝時代の地方史や、ポーランドの文化・政治・経済的紐帯、プロイセンにおけるポーランド語話者の歴史、中世以来の歴史的に一貫した運動としての「東方への衝動」などの課題に努力を集中した。 しかし「回復領」という表現は、共産主義政権の公的な用語としては1949年までに姿を消した。その後も一般的に通用する「俗語」として、現在に至るまで使われ続けているものの、これらの地域は、ポーランドの国家体制の中で、特異性のある領土であると見なすべきではないという考え方に基づいて、近年では「西部・北部領土」という表現が用いられている。
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