版の問題
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「交響曲第3番 (グリエール)」の記事における「版の問題」の解説
指揮者のレオポルド・ストコフスキーはこの作品を非常に評価し、スラヴ文化の集大成と見なしていた。それでも1930年に、この作品が聴衆に親しまれていないことに鑑みて、この作品をカットすることを許可してくれるように作曲者に頼んでいる。グリエール自身が本気でそのような選択をしたのかはともかくも、アメリカ合衆国の大指揮者に取り上げられる可能性に動かされたのは間違いなく、ストコフスキーの提案に同意することにしたのである。そこでストコフスキーは本作を、およそ45分の長さに切り詰めて、たびたびこの短縮版で録音を行なった(ちなみにユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の録音もストコフスキー版を用いている)。このような「裏切り」によって作品はあまり壮大ではなくなり、交響曲サイズの連作交響詩ないしは交響組曲といった観は免れなくなったものの、ストコフスキー版がそれ自体の魅力を醸し出しており、非常に効果的であるのは疑いの余地がない。 しかしながらこのような変更が必要であるとは他の指揮者からは認められておらず、ヘルマン・シェルヘン、ハロルド・ファーバーマン、ヨアフ・タルミ、ドナルド・ジョハノス、エドワード・ダウンズの録音は、全曲カットなしで、原曲の気宇壮大な雰囲気を伝える演奏となっている。このように現在では、一般の音楽愛好家にとってノーカットの原曲盤が入手しやすくなっている。
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版の問題
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「交響曲第9番 (ベートーヴェン)」の記事における「版の問題」の解説
この作品は、その斬新な作風から解釈やオーケストレーションについて多くの問題を含んでおり、19世紀後半のワーグナー、マーラー、ワインガルトナーといった名指揮者・作曲家によるアレンジが慣例化している他、ストコフスキー、近衛秀麿、トスカニーニなども独自のアレンジを施しており、幾つかはCDなどの録音で検証することが可能である。それらは演奏実践に有益な示唆を含んでいるが、同時に作曲当時には存在していなかった楽器法を取り入れた結果、曲本来の姿を伝える上では障害ともなっている。
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「ロココの主題による変奏曲」の記事における「版の問題」の解説
チャイコフスキーはこの曲を書く際、フィッツェンハーゲンの意見も参考にしながら作曲していた。しかしフィッツェンハーゲンは初演に際して、チャイコフスキーから許可されていたチェロ独奏パートの変更だけでなく、無断でオリジナルの第8変奏をカットしたうえ、変奏の曲順を大幅に入れ換えて演奏した(フィッツェンハーゲンはチャイコフスキーの自筆譜に直接同じインクで書き入れている)。フィッツェンハーゲンの改訂は演奏効果を高めることを狙って成功したものの、チャイコフスキーが変奏順で考えていた楽曲の構成は無視されることとなった。 チャイコフスキーの楽譜を出版していたピョートル・ユルゲンソンも「とんでもないことに、フィッツェンハーゲンはあなたの曲を変更する許可を与えろと言っている。これじゃ『フィッツェンハーゲン改訂版』だ!」と怒りの手紙を送っている。しかし彼の演奏で有名となったこの曲は、結局このフィッツェンハーゲン版で出版されることとなった。チャイコフスキー本人も、1888年にフィッツェンハーゲンの弟子であるアナトーリー・ブランドゥコーフがチャイコフスキーの本来の意図について質問したところ、チャイコフスキーがいらいらした様子で「もういいよ、そのままで!」と吐き捨てたというように苦々しく思っていたようだが、数々の演奏会での好評の様子と、この曲の評価を高めたと自負する手紙を送ってきたフィッツェンハーゲンに配慮したのか、彼が亡くなった後も自身の本来の版で出版することはしなかった。 その後、フィッツェンハーゲンの書き込みが入った自筆譜はブランドゥコーフを経て1930年にヴィクトル・クバツキーの手に渡る。チャイコフスキーの意図を復元しようと考えたクバツキーは、モスクワ犯罪科学調査研究所の協力によりX線と電子光学整流器によりチャイコフスキーの筆跡を判定する作業に取りかかり、20年以上かけて1955年7月に原典版の復元に成功。翌1956年にチャイコフスキー全集として出版された。この時スコアしか出版されなかったことや演奏効果の面などから多くの演奏家が現在でもフィッツェンハーゲン版を用いているが、近年ではラファエル・ウォルフィッシュ、ジュリアン・ロイド・ウェバーやスティーヴン・イッサーリスなどこの原典版による演奏も増えつつある。日本でも藤原真理の校訂により全音楽譜出版社より発売されている。 なお、先述の通りチャイコフスキー国際コンクールチェロ部門の課題曲であるが、第12回(2002年)大会からは原典版の演奏による参加が規定されている。
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「交響曲第7番 (ブルックナー)」の記事における「版の問題」の解説
「初版」はブルックナーの生前、初演の翌年の1885年に出版された。国際ブルックナー協会による原典版は、ハース版(第1次全集版)は1944年に、ノヴァーク版(第2次全集版)は1954年に出版された。この曲は、第1番~第4番や第8番のように、ブルックナー自身による大改訂が行われたわけではないが、残された自筆稿・資料の解釈の相違から、初版・ハース版・ノヴァーク版の間で、相違を見せる箇所がいくつかある。 この曲は1883年にいったん完成されたが、その後1884年の初演、1885年の出版に至るまで、細部の改訂が続けられた。残された自筆稿その他の資料から、1883年段階のものを明確にさせ分離することは、研究者の間でも不可能と判断されている。また、この間になされた改訂・加筆がブルックナー自身の意志によるものか、あるいは弟子・指揮者の意見に振り回されたものか、決定的な判断ができない箇所が多いとされる。また、初演に当たってブルックナーとニキシュは入念な打ち合わせを行い、何度か手紙をやりとりしており、これらも重要な資料としてハース・ノヴァークが参照している。ハースはできるかぎりブルックナー本来の意図を探ろうと校訂し、一方ノヴァークは譜面として残されたブルックナーの最終判断を尊重しようとしたと言われる。
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