澤柳事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 03:18 UTC 版)
京都帝国大学では学問の自由、大学の自治の観点から、慣行的に、教授の任免を教授会が行ってきた。しかし1913年、文部省が任命した澤柳政太郎総長は、教授会の同意なく文科大学と理工科大学の7名の教授を免官した。法科大学(後の法学部)は「教授の人事権は教授会にあり」と澤柳に反旗を翻し、翌1914年1月には法科の全ての教授と助教授が抗議の連帯辞職を宣言した。教官を失いそうになった法科学生は、教官の復職と教授会自治の獲得等を目指し、法科支持の運動を繰り広げた。東大法科も京大法科を支援した。結局、奥田義人文相は法科の言い分を認め、後ろ盾を失った澤柳は辞任に追い込まれた。教授会自治を文相が公認したことにより、京大や他大学の自治の発展にも好ましい影響を及ぼした。なお、京大ではこの事件を契機に、総長の学内選出を求める運動が起こり、これも数年後に実現した。 詳細は「澤柳事件」を参照
※この「澤柳事件」の解説は、「京都大学」の解説の一部です。
「澤柳事件」を含む「京都大学」の記事については、「京都大学」の概要を参照ください。
沢柳事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:25 UTC 版)
詳細は「沢柳事件」を参照 京都帝国大学では学問の自由、大学の自治の観点から、慣行的に、教授の任免を教授会が行ってきた(教授会自治)。しかし1913年、文部省が任命した澤柳政太郎総長は、教授会の同意なく文科大学と理工科大学の7名の教授を免官した。法科大学(後の法学部)は仁保亀松学長を中心に結束し、「教授の人事権は教授会にあり」と澤柳総長に反旗を翻した。澤柳総長と法科の対立は徐々に激化し、翌1914年1月15日、法科の全ての教授と助教授が抗議の連帯辞職を宣言する事態に発展した。 築半年足らずの新寄宿舎もこの騒動に巻き込まれた。この時点で新寄宿舎には117名の舎生がいたが、約半数の60名弱は法科に所属していたからである。教官を失いそうになった法科学生は直ちに行動を開始した。同15日、法科学生は臨時の学生大会を開催し、最初に32名の委員を選出した。6名は旧寄宿舎か新寄宿舎の舎生であった。続いて「吾人京都法科大学々生は誓て教官の留任を期す」こと、委員11名を東京に派遣することを決議した。上京委員は東京行の汽車に飛び乗り、翌16日午後には東京新橋に降り立った。一方、京都残留委員は新寄宿舎の会議室に「本部」を置き、以後はここを拠点に運動をした。舎生の半数が事件の当事者だったこと、(当時にしては珍しく)電話が通じていたことが理由と考えられる。17日、上京委員は早速、澤柳総長と奥田義人文部大臣を訪ねて、意見交換や陳情を行った。京都残留委員は第一回学生大会の決議文を「吾人京都法科大学々生は大学の自治学問の独立の為に、誓て教官の留任を期す」に修正する案を次回の学生大会に附すと決め、委員2名を東京に追加派遣した。18日、上京委員は「本事件の解決は必ずや名士の仲介によるべき」と予想し、学会の名士といわれる人々を訪ね、仲介を要請する戦術を採った。しかし彼らは多忙ゆえ、中々面会が叶わないのは悩みどころであった。19日、上京委員はこの日、元文相で前総長の菊池大麓と、元文相の濱尾新を訪ね、菊池には面会を拒否されたものの、濱尾との面会はかない、充分に思うところを述べることができた。一方、京都では二回目の学生大会が開催され、決議文の修正は「自明の理にしてその必要なし」と否決された。世間では新聞が法科を糾弾し、有識者が京大法科の廃止や東大法科との合併を主張するなどしており、法科学生はひどく気分を悪くした。20日、三回目の学生大会が開催され、以下の決議文が採択された。「吾人京都法科大学々生は、教官の主張にして容れられざらんか、誓て教官各位と進退を共にせんことを期す」情勢を変えるための博打であった。21日、上京委員は法学者の岡松参太郎を訪ねた。本来、法学者の富井政章を訪ねる予定だったが、多忙につき面会は叶わなかった。一方、法科学生は決議文を含む「宣言書」を公開し、不退転の決意を固めた。また奥田文相と再度の会見をするため、3名の委員が宣言書を携えて上京することとなった。22日、上京委員は3名と合流して大臣邸に向かった。彼らは奥田文相と約30分間面会し、宣言書を手渡して学生の決心が固いことを伝えることに成功した。委員らは相当な手応えを感じたようである。同日には富井政章と、同じく法学者の穂積重遠が仲介に乗り出してくれるという嬉しいニュースも入ってきた。委員らは予想の的中を喜び、以後の運動を停止し、状況を静観することとした。そして23日、奥田文相は「教授ノ任免ニ付テハ総長カ職権ノ運用上教授会ト協定スルハ差支ナク且ツ妥当ナリ」と(法科が主張する)教授会自治を認め、連帯辞職・退学は未然に回避された。28日、最後の学生大会が開かれ、経緯と会計の報告が行われた。辞職を撤回した教官たちの姿もあった。事件の円満解決に一同嬉々としており、仁保学長の挨拶の後、全員で法科大学万歳を三唱した。奥田文相に梯子を外された澤柳総長は同年4月に辞任、京大を去った。この事件を機に、京大を含む、国内の大学の自治と学問の自由は大きく前進したとされる。京大では総長の学内選出も行われるようになった。 ところで当時、新寄宿舎の舎生は月に一度、手書きの舎内雑誌を作成していたが、1914年1月には「大爆発号」を臨時増刊している。この号には桜島の大正噴火と沢柳事件についての記事や落書きなどが多数収録されている。
※この「沢柳事件」の解説は、「京都大学吉田寮」の解説の一部です。
「沢柳事件」を含む「京都大学吉田寮」の記事については、「京都大学吉田寮」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
Weblioに収録されているすべての辞書から澤柳事件を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から澤柳事件を検索
- 澤柳事件のページへのリンク