湯浅治郎とは? わかりやすく解説

湯浅治郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/18 16:49 UTC 版)

湯浅 治郎
ゆあさ じろう
生年月日 (1850-11-24) 1850年11月24日
出生地 日本上野国碓氷郡安中宿(現・群馬県安中市安中
没年月日 (1932-06-07) 1932年6月7日(81歳没)
死没地 日本東京府豊多摩郡代々幡町初台(現・東京都渋谷区初台)
所属政党 群馬公議会→立憲自由党
配偶者 茂登子、初子
子女 長男・湯浅一郎
次男・湯浅三郎
五男・湯浅八郎
六男・湯浅十郎
七男・湯浅与三
親族 弟・湯浅吉郎(半月)
サイン
衆議院議員
選挙区 群馬県第5区
当選回数 2
在任期間 1890年(明治23年) - 1894年(明治27年)10月
群馬県会議員
在任期間 1880年(明治13年) - 1890年(明治23年)
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湯浅 治郎(ゆあさ じろう、嘉永3年10月21日1850年11月24日〉 - 1932年昭和7年〉6月7日)は、日本明治から昭和戦前期にかけての政治家衆議院議員群馬県会議員)・実業家社会運動家雅号雲外。同郷の新島襄から洗礼を受け、中村栄助大澤善助とともに経営面で初期同志社を支えた[1]

弟は詩人湯浅吉郎(半月)、妻は徳富蘇峰蘆花の姉・初子、子に画家湯浅一郎や同志社総長・国際基督教大学学長の湯浅八郎など。海老名弾正山室軍平深井英五らと親交があった[2]

経歴

湯浅治郎
現在の有田屋(2014年撮影)。

生い立ち

嘉永3年10月21日(1850年11月24日)[3][4]上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の長男として生まれる[5][注釈 1]。湯浅家はもとは農業を営む地主であったが[6]、祖父・源造が有田屋を創業して醸造業を手がけることとなった[7][注釈 2]。さらに源造の娘婿として有田屋2代目を継いだ治郎吉は横浜開港に伴い米・蚕種・油といった品物の売買に参入して成功を収め[6]苗字帯刀を許されて[6]安中藩準藩士として扱われ藩の御用達を務めた[8]。治郎吉・茂世夫婦には5人の子があったが、治郎と吉郎の2人以外の兄弟は夭逝している[10][11][4]。治郎は岩井友之丞重遠(小野栄重の弟子)に漢学の教えを受け[12][13][14]、さらに東京に出て山本直砥(原文ママ)に師事した[15]

元治元年(1864年)に有田屋3代目当主となる[12][14]

治郎は父の事業をさらに発展させ、その手腕を買った安中藩により藩札の発行に関与し、明治4年(1871年)の藩邸処分にあたっては勘定奉行とともに京都へ赴いている[16][17][14]。治郎は商売のために横浜へ赴くことも多く、1874年(明治7年)に高島学校で英語を習っている[18]

明治5年(1872年)に安中に私立図書館「便覧舎」を設置し、アメリカ人から入手した絵入雑誌も含む3000冊の蔵書を無料で閲覧に供した[19][20][21][22]。建物は1887年(明治20年)に焼失したが、有田屋向かいの跡地には現在「便覧社跡」の石碑が建つ[21][22][23]。治郎は福澤諭吉の全著書を読破していたということから、福澤の思想に共鳴したことが図書館設置の動機となった可能性が指摘されている[19][21]

1873年(明治6年)に学務委員となり[15]、上野尻小学校(現・安中市立安中小学校)を開校した[2]

キリスト教入信

1883年5月12日午前8時に東京九段坂の鈴木真一の写真館で撮影された第三回全国基督信徒大親睦会の幹部の記念写真、湯浅は前列右から3人目

治郎は新島襄の父・民治と連れだって横浜に赴くなど元来新島家とは親しかったが[24][25][18]1874年(明治7年)に襄が帰郷するとその講演によってキリスト教に関心を抱くようになり、千木良昌庵らとともにキリスト教の勉強会を組織した[26][27][28]1877年(明治10年)湯浅らの求めに応じて同志社の学生であった海老名弾正が伝道のため安中に派遣されることとなり、その旅費を負担した湯浅と海老名は親交を持つこととなった[29][注釈 3]1878年(明治11年)3月に便覧舎を会場として湯浅夫妻ら30名は襄から洗礼を受け、同時に安中教会を創設して[30][31][15]治郎・千木良・森本成徳が執事となった[32]。安中教会は当初から外部の支援を受けない自給教会として成立したが、それは治郎の費用拠出によるものであった[31]

1878年(明治11年)の第一回全国基督教信徒大親睦会に出席[33]

1880年(明治13年)5月東京YMCAの創立に参加[33][34][35]

1883年(明治16年)5月に東京で行われた第三回全国基督教信徒大親睦会の幹部になる。

1886年(明治19年)霊南坂教会が現在地に会堂を建立するが、この土地は治郎の名義で取得されたものであった[36][37]。同年組合教会本部の常置委員に就任、10年間会計を務めた[38][33][39]

県会議員、議長として廃娼県を実現

1879年(明治12年)碓氷郡書記を経て、1880年(明治13年)には群馬県会議員に当選[15][40][41]。県会議員時代には、松沢村(現・高崎市箕郷町松之沢)の入会地をめぐる秣場(まぐさば)騒動の解決のため議長・宮崎有敬とともに県会の代表として話し合いに向かい事態を収拾に導き[42][43][44]、第2代県会議長にも就任した[15][45]

議会での特筆すべき実績は全国初の廃娼県実現で、義兄・真下珂重郎や原市教会の宮口二郎、甘楽教会の医師・斎藤寿雄らの議員とともに廃娼運動を牽引し、1882年(明治15年)に「娼妓廃絶の建議」を県会で決議した[46][47][48][49]。これを受理した県令・楫取素彦1888年(明治21年)6月限りで廃止するという布達を発した[46][47][48][49]。しかし次代の知事・佐藤與三が廃止を当分延期すると決定したため、県会は再度廃止を決議、辞職を迫られた知事は県会を解散するが、改選後も大勢は変化せず、知事は免官となり、最終的に廃娼は1893年(明治26年)末に実現した[46][48][50]

ほかに1882年(明治15年)に湯浅、真下、中島祐八竹内鼎三、野村藤太、佐藤善一郎の6議員は県知事の公選も県会で建議したものの、反対多数で否決され実現しなかった[51]。湯浅、中島、竹内、野村らは同年3月に立憲改進党の影響を受け上毛協和会を結成して民権の拡張・地租軽減を訴え機関新聞『上野新報』を発行したものの翌年には解散となった[52]1888年(明治21年)大同団結運動に伴い、高津仲次郎らによって上毛政社が結成されたのに対し荒井啓五郎らは上毛同志会を結成し、治郎は両者の合同を提案したが実現しなかったため、治郎は両者から脱会した賛同者と群馬公議会を結成することとなった[53]

実業家として

1887年の民友社員。前列右が湯浅、その左後ろが蘇峰

1880年(明治13年)同潤社を創立し[2]、同社を改めて[54]1883年(明治16年)に碓氷銀行を設立し頭取に就任した[55]。また国光社という機械製糸会社も興したがこの事業はうまくいかなかったという[40]

1881年(明治14年)に日本鉄道会社が設立されると理事に就任した[54][56][57]

1883年(明治16年)警醒社の設立に参加[58][59][60]、治郎は会計を担当し原稿料を前払いして小崎弘道『政教新論』、浮田和民『経済の原理』、植村正久『真理一斑』などの書籍を世に出した[61]1887年(明治20年)義弟・徳富蘇峰民友社設立にも参加し『国民之友』を刊行した[62][61][63]

国政進出と新島襄の死、政界からの引退、同志社での活動

同志社の教職員と生徒。2列目左から2番目より湯浅、新島襄、海老名弾正、小崎弘道。最後列左から2番目が柏木義円。
明治後期の同志社理事団。前列右端が湯浅。

1888年(明治21年)同志社社員となり[64][33]、同年の「同志社通則」の起草に新島襄、徳富蘇峰とともに携わった[65][33][66]

1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に群馬県第5区から立候補して当選、衆議院議員となる[67]。同年に立憲自由党が結成されると同県の高津仲次郎、新井毫木暮武太夫とともにこれに参加した[68]。武士出身者が多い議会の中では、数少ない財政に明るい人物だったと蘇峰や深井英五からは評価されている[69]島田三郎植木枝盛中村栄助らの代議士とともに廃娼について協議を行った[70]

1890年(明治23年)1月23日、新島が大磯で死去[65][71][72]。それに伴い山本覚馬らが要請を行い、1891年(明治24年)[注釈 4]には京都に移住した[65][33][25]。蘇峰は民友社の副社長と言うべき治郎が東京を離れることに大いに落胆している[1]。翌年の第2回衆議院議員総選挙には京都に住みながら群馬から出馬し当選を果たした[73]

1892年(明治25年)10月、衆議院議員を辞職して国政から引退した[74][75][76][77]

同志社の2代社長に就任したのは、治郎と同じく要請に応えて東京から移住した小崎弘道であった。治郎は同志社理事としては分割管理されていたその財産を集約して明確化に努め、寄付金も寄付者と金額を台帳に記入し会計報告に記載することとした[78][79]。治郎は宣教師館などの不動産の所有権の確保を通じてアメリカン・ボードからの財政面での独立を主張し[80][79][81]、結果として1896年(明治29年)に同志社はアメリカン・ボードの援助に対し謝絶を申し出ることとなった[82]。そういったアメリカン・ボードからの独立や、後述する綱領改訂の議論を背景として、翌1897年(明治30年)、小崎が社員会で提出した予算案が否決され、「ある社員」によって辞表提出を提言された小崎は同志社社長を辞任に追い込まれた[83][84]。この「ある社員」とは治郎のことであるとされている[83][84]。小崎の辞職に伴い、浮田和民・柏木義円も同志社を去ることとなった[85][86][83][87][1]。柏木義円は治郎によって安中教会に招聘されることとなった[88][1]

小崎の後任社長には横井時雄が就任した[89][90][86][91]。前述した綱領改訂の議論とは、同志社の学生が徴兵猶予の特典を得るために、宗教学校としての綱領見直し[注釈 5]をはかるものであったが、これは組合教会やアメリカン・ボードなどの強い批判に晒されることとなり、1898年(明治31年)12月に横井をはじめとする社員は全員が辞職するに至った[89][92][86][91]。治郎はそれに先立ち、2月15日に辞表を提出し、9月に受理がなされているが、その原因は日本銀行に保管された維持資本を運用して不足金にあてがうという議案(社員会では否決された)に関係していると原誠は推察している[93]

1903年(明治36年)に理事として復帰、1910年(明治43年)の東京への転居後も1918年大正7年)まで理事を務めていた[88]。1918年(大正7年)、原田助総長に関わる論争の中、水崎基一らの理事とともに辞表を提出し長らく務めた同志社理事の職から離れた[94]

晩年

新島襄記念会堂

1910年(明治43年)、東京・霊南坂教会の隣に転居[88]。東京から柏木義円が牧師を務める安中教会に毎月通っていた[95]

1913年(大正2年)10月の第29回組合協会信徒大会の「朝鮮人伝道事業を拡張し新同胞教化の実を挙ぐる事」という決議に対し、湯浅は匿名者(実は朝鮮総督府)の寄付を受けて同事業を遂行することに関して反対意見を表明し、安中教会の柏木義円もこれを支持した[96]。朝鮮政策については、「満韓を視察して」(『中央公論1916年6月号)で同化政策を批判した吉野作造とも意見が一致し、交誼を結ぶに至った[96]

1915年(大正4年)に晩年を過ごすことになる住まいを代々木初台に新築し、転居した[97]

1918年(大正7年)に安中教会に新島襄を記念する会堂を建設することを企画し、各地で寄付を募った[98][99]。翌1919年(大正8年)に竣工したのが現在の新島襄記念会堂である[95]1928年昭和3年)に安中教会を訪れた際は教会の維持費に1000円、さらに利子を牧師に差し上げるとして1000円を預金、また安中小学校でも1000円を寄付したという[100][101]

1932年(昭和7年)6月7日、肺炎で死去[102][2]。83歳[102][103]。墓所は多磨霊園[104](7-1-15)。

親族

大変な子だくさんで、最初の妻・茂登子との間に6人、後妻の初子徳富蘇峰蘆花の姉)との間に8人の子を儲けた。

系図
1源造
 
きさ
 
 
 
 
2治郎吉
 
茂世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
真下利七
 
 
 
 
 
徳富一敬
 
久子 矢嶋楫子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉郎(半月)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
珂十郎 茂登子
 
 
 
3治郎
 
 
 
 
 
初子 蘇峰 蘆花 妙子
 
鵜飼猛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一郎 大工原銀太郎
 
にい 4三郎 ろく しち
 
 
くめ 十郎 かずよ 与三 由郎
 
 
 
 
 
八郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5正次
 
 

脚注

注釈

  1. ^ 『群馬県議会史 別巻』では次男。
  2. ^ 醤油の産地として知られる和歌山県有田郡湯浅町とは無関係とされている[3][8][9]
  3. ^ 湯浅の後妻・初子と後に海老名の妻となるみやは従姉妹にあたる。
  4. ^ 『群馬県議会史 別巻』では1892年。
  5. ^ 綱領6条には「本社ノ綱領ハ不易ノ原則ニシテ決シテ動カスベカラズ」とあったため同条の廃止も必然的に問題となった。

出典

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参考文献

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  • 原誠「湯浅治郎と柏木義円―湯浅の同志社時代を中心として―」『基督教文化学会年報』第31号、基督教文化学会、1-15頁、1985年10月1日。doi:10.11501/4424146ISSN 0911-9922 (要登録)
  • 群馬県史編さん委員会 編『群馬県史』 通史編7《近代現代1》、群馬県、1991年。doi:10.11501/9644520 (要登録)
  • 半田喜作『湯浅治郎と妻初』『湯浅治郎と妻初』刊行会、1994年10月9日。 
  • 太田愛人『上州安中有田屋 湯浅治郎とその時代』小沢書店、1998年11月10日。 ISBN 4-7551-0379-7 

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