萩原弥惣治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/25 16:34 UTC 版)
萩原 弥惣治(はぎわら やそうじ、1933年〈昭和8年〉9月22日[1][2][3] - 2021年〈令和3年〉4月5日)は、日本の政治家。位階は従四位。
前橋市長(2期)、群馬県議会議員(5期)、第68代群馬県議会議長、前橋市議会議員(3期)などを務めた。
経歴
群馬県勢多郡荒砥村大字西大室(現・前橋市西大室町)の農家に生まれる[1]。父・熊作は公選初代の荒砥村長を務めた[1]。1952年群馬県立勢多農林高等学校卒業[1][2]。その後上京し講道館などで柔道の稽古に没頭する[1][2]。3年ほどで帰郷し青年団活動に取り組み、1959年に県青年団連合会会長、翌年に日本青年団協議会常任理事となった[1]。
1969年、前橋市議会議員に初当選し以後連続3期務める[1][2]。1977年から1978年にかけては副議長も務めた[1]。
1979年、群馬県議会議員に初当選し以後連続5期17年務める[2]。1991年藍綬褒章受章[2]。1995年5月16日から同年12月14日まで、第68代群馬県議会議長を務めた[4]。
1996年の前橋市長選挙に立候補し初当選。2000年、前橋市長選挙で小野寺慶吾を破り2度目の当選。2004年、3期目を目指し、自民党、公明党、社民党、民主党の推薦を受けて市長選に立候補したが、元群馬県議会議長の高木政夫に敗れた。前橋市長選挙に於ける現職市長の落選は、これが市政初の出来事であった。落選後、政界から引退した。
2021年3月11日に大腿骨骨折を負い、前橋市内の病院に入院。その後肺炎が判明したため、同市内の別の病院に転院し加療を続けていたが、同年4月5日、肺炎のため死去[5]。87歳没。死没日をもって従四位に叙される[6]。
人物
- 市長として、8番街地区の市街地再開発事業撤退、市東部地区の農業振興などの事業を成し遂げた。
- 県議会議員時代は政策同志会(福田系)に所属。前橋市長就任後は、中曽根系の支援を受けていた小寺弘之に対し、対決姿勢を鮮明に打ち出していた。しかし、2004年の前橋市長選において、県政塾(中曽根系)に属していた高木政夫に敗れてしまった。
- 2002年に、自伝を刊行して市内の有権者に無料配布したところ、しんぶん赤旗に告発された。
- 社団法人全国保健センター連合会会長、前橋工業団地造成組合管理者、前橋広域市町村合併協議会会長、国土審議会首都圏整備特別委員会委員、前橋広域市町村圏振興整備組合理事長などの要職を歴任した。
- 柔道家としても知られる。
主な著作
- 「生涯青春・本音で語れば」(あさを社)自伝
脚注
出典
関連項目
公職 | ||
---|---|---|
先代 藤嶋清多 |
![]() 1996年 - 2004年 |
次代 高木政夫 |
議会 | ||
先代 橋爪和夫 |
![]() 第68代:1995年 |
次代 角田登 |
固有名詞の分類
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