江原桂三郎 (2代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 01:21 UTC 版)
江原 桂三郎
えばら けいざぶろう
|
|
---|---|
![]() |
|
生年月日 | 1894年(明治27年)5月9日 |
出生地 | 群馬県前橋市新町 |
没年月日 | 1967年9月28日(73歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
前職 | 群馬大同銀行常務取締役 |
称号 | 勲四等瑞宝章 贈従五位 |
親族 | 江原芳平(祖父) 江原桂三郎 (初代)(父) |
|
|
在任期間 | 1933年(昭和8年)12月24日 - 1941年(昭和16年)12月23日 |
2代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう[1]、1894年(明治27年)5月9日[2][1][3][注 1] - 1967年(昭和42年)9月28日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。群馬県前橋市長。初名・亮次[1][3]。
経歴
のちに前橋市長を務める先代・江原桂三郎の次男[注 2]として前橋市新町(現在の朝日町2丁目)に生まれる[1][3]。1919年(大正8年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し、三菱合資会社銀行部(三菱銀行)に勤務する[4][1][3]。東京電燈前橋支店勤務、群馬中央銀行調査部長、同行常務取締役、群馬県農工銀行取締役などを歴任[4]。さらに群馬大同銀行(現・群馬銀行)常務取締役となった[4][1][3]。1929年(昭和4年)に桂三郎の名を襲名[1]。
1933年(昭和8年)12月24日、前橋市長に就任[4][1][3]。1937年(昭和12年)再選した[4]。市長としては耕地整理事業の完遂、道路舗装の推進などの実績を残した[1][3]。のち大政翼賛会市支部長となり[2]、1941年(昭和16年)12月23日市長を辞職[1][3]。戦後は公職追放となった[5]。
市長退任後も上毛倉庫株式会社社長として市政との関わりを持ち、日本倉庫協会理事も務めた[1][3]。
1967年(昭和42年)9月28日病没[1][3]。法名・大徳院桂峯賢瑞居士、墓所は朝日町4丁目の千日堂[1][3]。贈従五位[3]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 帝国自治協会『全国市長銘鑑 : 自治制実施五十周年記念』帝国自治協会、1938年 。
- 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』帝国秘密探偵社、1943年 。
- 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年 。
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 前橋市史編さん委員会 編『前橋市史』 5巻、前橋市、1984年2月1日。doi:10.11501/9643049。(
要登録)
- 江原桂三郎_(2代)のページへのリンク