水上艦艇による突入案
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「坊ノ岬沖海戦」の記事における「水上艦艇による突入案」の解説
戦艦を座礁させて砲台として用いるという発想は、1943年(昭和18年)12月中旬の時点で大本営海軍部(軍令部)と連合艦隊(司令長官古賀峯一海軍大将、参謀長福留繁海軍中将)の間で俎上にのっていた。 1944年(昭和19年)2月頃より、日本海軍では東条英機内閣と嶋田繁太郎海軍大臣の更迭(倒閣運動)および終戦工作への動きが本格的にはじまっていた。海軍側では、岡田啓介海軍大将(二・二六事件当時の内閣総理大臣)が積極的に動いていた。戦局がますます不利になる中、海軍省教育局第一課長である神重徳大佐も高木惣吉少将の依頼を受け、海軍中央の課長級に東條・嶋田体制打倒の流れをひろげることになった。 同年6月中旬、連合軍はサイパン島に来襲して上陸作戦を開始(サイパン島の戦い)、日本軍はあ号作戦を発動する。6月19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦で日本海軍機動部隊(司令長官:小沢治三郎中将)は惨敗。その頃、日本海軍は東条英機内閣の打倒と嶋田繁太郎海軍大臣の更迭を巡って紛糾していた。昭和天皇と高松宮宣仁親王(天皇弟宮、軍令部大佐)の間でも、今後の方針について激論になる。高松宮は密かに鈴木貫太郎海軍大将を首相にする動きをすすめていた。 同時期の神は高木とともに東條英機首相の暗殺計画を具体的に計画しており、この動きは岡田や高松宮宣仁親王も知っていた。一方、神は戦艦・巡洋艦による突入作戦を具申したこともあった。神自身は、扶桑型戦艦山城もしくは長門型戦艦長門艦長を希望する。そのときは軍令部作戦部長である中澤佑少将に「砲を撃つには電気系統が生きてなければならない」と却下された。神は岡田(当時、岡田は東條内閣打倒運動実施中)を訪問し「サイパンを取られてはおしまいだ(B-29による本土空襲がはじまるため)。海軍がいつまでも大和・武蔵のような大艦を保存していてもしようがない。護衛機があればサイパンまで近接できる。せめていまサイパンを守りおおせば、しばらくゆとりが出来て、その間の作戦を練ることができる」と主張し、軍令部へのとりつぎを依頼した。大本営海軍部(軍令部)はサイパン島奪還作戦を具体的に検討し、「海軍は特攻隊の考え方でやる」という方針で決死の思いであったという。「サイパンをとられて(本土空襲がはじまれば)、大和と武蔵を残して何になる」という神や、大本営の熱意に対し、連合艦隊はサイパン島奪還作戦に消極的だった。 6月下旬、サイパン島奪還作戦は中止。神は高木にサイパン島奪還作戦と大和型戦艦の突入が水泡に帰った無念を訴え「嶋田繁太郎軍令部総長と伊藤整一軍令部次長に決断が出来ないのは終生の恨みだ」「たとえ失敗しても、大和と武蔵を惜しんで後でどこに使い道があるというのか」「その代わり海軍はこれでお終いですが」「(仮にサイパン島奪還が成功しても)得られる時間的余裕は六ヶ月」と発言している。 7月17日、嶋田繁太郎海軍大臣・軍令部総長は海軍大臣職を野村直邦大将に譲る。翌7月18日に東條内閣は総辞職に追い込まれ、7月22日に小磯内閣(小磯國昭内閣総理大臣・重光葵外務大臣・杉山元陸軍大臣・米内光政海軍大臣など)が成立した。米内は野村を軍事参議官に、井上成美中将を海軍次官に、多田武雄中将を軍務局長に任命した。軍令部総長も8月2日より及川古志郎大将(元海軍大臣)となった。 7月13日附で海軍省から連合艦隊参謀に転じた神は、その後も水上艦艇による突入作戦を立案した。なお水上艦艇による突入作戦は、軍令部・連合艦隊・第一機動艦隊が7月下旬に実施検討した図上演習でも、たびたび実施されている。捷号作戦における第二艦隊(司令長官:栗田健男中将)による水上艦艇突入案(戦艦の砲力と巡洋艦の魚雷戦を活用)と空母囮案は、第一機動艦隊(司令長官:小沢)から出された。第一機動艦隊の水上艦艇突入作戦案に大井篤海上護衛総司令部参謀が反対意見をのべたが、第一機動艦隊は「第二艦隊の水上突入作戦が必要である」と反論した。第二艦隊の水上突入作戦は(目標を敵艦隊とするか輸送船団にするかで見解の相違があったにせよ)、軍令部・連合艦隊・機動部隊の一致した次期作戦指導方針であった。 昭和19年12月中旬、連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将と連合艦隊参謀の神は、日本陸軍のミンドロ島逆上陸を強硬に主張する。これに呼応して第二遊撃部隊・第二水雷戦隊(司令官:木村昌福少将)による礼号作戦が実施された。
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