次の庶民院議員
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「トマス・クック (初代レスター伯爵、1754-1842)」の記事における「次の庶民院議員」の解説
クックは、政治的に大きな問題を抱えていた1790年の選挙で庶民院議員に再選された。その1年前のフランス革命がホイッグ党を半分に分けており、革命の行動が残忍なものになるに連れて、革命家達を支持したクックとフォックスの立場は孤立した少数派になった。1793年に宣戦布告がなされ、農作物の価格や小作料が上がることで、イギリスでもその影響が感じられるようになった。国を守るために土地の義勇農騎兵団結成にも繋がった。これにクックは反対していた。このためにノーフォークにおけるその人気が衰え、彼がジャコバン派ではないかという疑いが生まれ、クックは共和主義者ではなく「彼らの主義を嫌悪している」と公に宣言することまで強いられるようになった。最終的に1798年9月、ホウカム・ヨーマン騎兵隊を立ち上げ、それを少佐として指揮し、侵略にたいして守った。この部隊は1802年のアミアンの和約で一旦解隊されたが、1年後に戦争が再発すると、さらに義勇軍が結成された。クックは侵略される危険性が過大に言われていると感じて、防衛準備のどれも欠席していたが、最後は世論に説得されて1803年にヨーマン騎兵隊を改編した。この部隊も1805年には再度解隊された。 フランス革命がホイッグ党を2つの派閥に分けたが、革命が進行するに連れて、革命家を支持するフォックスの派閥が萎み始めた。クックはフォックスに付いたままであり、戦争が始まるとその分裂が決定的なものとなった。フォックスはイギリスが紛争に巻き込まれる必要があるという意見を受け入れるのを拒み、クックもそうした。議会では、クックが紛争に反対して発言し、1794年4月に新税によって戦費を賄う動議を議論し、1795年3月24日にはウィルバーフォースの戦争反対動議を支持した。しかし、クックは地方の問題に関わっていることをよしとし、主たる関心事は「農業の利益に関すること」であり、新しい土地税に反対し、猟期を短くする法案を提出し、それによってトウモロコシの収穫量を増やそうとした。クックは1796年の選挙で再度庶民院議員に復帰した。ただし、その反戦、反政府を訴えたことで、選挙民には傲慢で専制的と映ったが、フォックス派が議会活動から撤退することに合意していたので、クックが復帰できた。 1802年6月に議会が解散された後、新たな選挙でもクックは当選したが、接戦だったので選挙戦に35,000ポンドを投入することになった。1806年にウィリアム・ピット(小ピット)が死亡し、ホイッグ党の2つの派閥は同盟することで合意した。いわゆる「全才能の内閣」が結成された。フォックスは外務大臣として確認され、ウィンダムが陸軍大臣と植民地大臣を兼務した。この政府がクックを貴族に叙することを提案したが、クックが辞退した。議会は主に奴隷制度の廃止を議論しており、フォックスが1806年9月13日に死んだ後に廃止がなった。フォックスの死により、彼らは親友だったので、クックにとっては議会に訴えるものがなくなった。その後の2年間でクックが議会に出席する機会は非常に限られたものだったが、次に注目されるべきは穀物法を支持したことだった。この法はノーフォークで非常に人気が無く、1815年には暴徒から攻撃されることまで起こった。 ワーテルローの戦いでナポレオン・ボナパルトが敗北したことで、ヨーロッパの戦争は終わり、軍隊は故郷に戻った。その結果、経済が変化し、政府は20年間の戦争で負った負債の返済を始めたので失業率が増加し、国全体が劇的な変化を経験していた。農産物の価格は下落し、クックは農夫に影響を与えることになる増税に反対することで活発になった。1816年2月、所得税と酒税に反対して発言し、3月には資産税を「市民の自由と全く相反するもの」として攻撃した。高失業率と高税率の時代に政府の過剰な介入に反対し、軍隊予算に反対票を投じ、5月には王室費にも反対した。1817年4月5日にカウンティの集会が開かれ、クックは、国王が言論と出版の自由を制限することで「民主主義を転覆し、国を奴隷化しようと」していると話し、政府を排除する必要があると提案した。 クックは1818年に議会に戻り、王室法案に反対し、狩猟法改正案を提案したが成立しなかった。ピータールーの虐殺の後、政府が扇動的集会防止法を提案したことに続いて、クックは政府が「マンチェスターの事件(ピータールーの虐殺)に最も強く関わっている」と非難し、その集会は「政府当局による干渉が」無ければ、平和的なものだったはずだと言った。1820年代、クックの発言は遥かに少なかった。第1に議会はトーリーの支配が続いており、第2にクック自身が再婚したためだった。1822年、クックは68歳で寡になってから21年が経過しており、アルベマール伯爵 (William Keppel, 4th Earl of Albemarle、1772-1849) (英語版) の娘であり、クックの18歳の名付け子だったアン・ケッペル (1803-1844) と結婚した。アンはクックの甥のウィリアムと結婚するためにホウカムに連れて来られたが、この二人は結婚できなかった。甥のウィリアムは、クックに男子が居なかったために、荘園を承継することが予定されていた。アンとクックの結婚は周りが困惑するものであり、「愚かなこと」と言われたが、その反対にも拘わらず、2月26日に結婚式が行われた。結婚から間もなくアンが妊娠し、その息子トマスは12月22日に生まれた。 1831年、クックの親友である第2代グレイ伯爵が首相になった。その結果、クックが議会に登院するのも定期的になった。1832年大改革法に喜びを表明したが、その主題について発言したのは1回のみであり、それが1832年6月4日に成立した機会を捉えて、議員から引退する適切な時だと判断した。「イングランドの最も偉大な下院議員」としてクックは、1837年7月に貴族に列せられることを受け入れ(それまでに6度提案されていた)、レスター伯爵となった。しかし貴族院に列席することを喜ばず、「治療不能の者への病院」だと言っていた。
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