旧石器時代から平安時代までとは? わかりやすく解説

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旧石器時代から平安時代まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 23:54 UTC 版)

横浜市の歴史」の記事における「旧石器時代から平安時代まで」の解説

横浜市のあゆみ 略年表」も参照 横浜市域は3万年前に化し立川ローム堆積始まった2万2000年前までには市内人間現れ人類の活動痕跡である遺跡の形成が始まる。横浜市内における遺跡周知の埋蔵文化財包蔵地)の分布状況は、市教育委員会刊行の『横浜市文化財地図』や、市の公開する行政地図情報遺跡地図)で参照可能だが、市域内遺跡数はおよそ2500か所にのぼる。ただし大都市横浜にあってこの内1700か所はすでに全域的または部分的に開発などによる破壊受けているという(1998年時点)。 旧石器時代の遺跡は、旭区矢指谷遺跡都筑区北川貝塚花見山遺跡けんか山遺跡など、およそ25か所発見されている。 縄文時代遺跡市内各所みられるが、市北部の都筑区では、1970年代から80年代港北ニュータウン開発伴って200超える遺跡一斉に発掘調査された結果港北ニュータウン遺跡群)、南堀貝塚北川貝塚をはじめ三の丸遺跡二ノ丸遺跡月出松遺跡神隠丸山遺跡華蔵台遺跡など、縄文時代時期亘る多数集落遺跡発見されている。日本初め環状集落の姿が明らかにされた南堀貝塚や、縄文時代掘立柱建物存在初め確認され小丸遺跡など、考古学上の発見知られる遺跡存在した弥生時代遺跡同時代中期までは少ないが、中期後半以降は、都筑区大塚・歳勝土遺跡(国の史跡)・大原遺跡(おっぱらいせき)・権田原遺跡(ごんたっぱらいせき)、青葉区朝光寺原遺跡など、方形周溝墓を伴う環濠集落現れる市内における古墳時代古墳出現3世紀後半とされ、現在確認されている市内最古古墳2005年平成17年)に発見され港北区新羽南古墳3世紀後半円墳)である。なお4世紀段階では、弥生時代以来方形周溝墓のほか、弥生墳丘墓から古墳へと発展する過渡的な特徴を持つ陸橋付き方形周溝墓併存しており、青葉区の稲ヶ原遺跡などでこの種の方形周溝墓検出されている。その後4世紀7世紀にかけて市内各所古墳(群)や横穴墓(群)が出現したほか、矢崎山遺跡など、同時代集落遺跡形成されるうになる青葉区朝光寺原古墳群稲荷前古墳群市ヶ尾横穴墓群荏子田横穴港北区観音松古墳戸塚区富塚古墳西区軽井沢古墳などはこの時代遺跡である。磯子区三殿台遺跡(国の史跡)は、縄文時代弥生時代古墳時代集落が同じ台地上に営まれ複合遺跡として知られる市域地名に関する最古の記録は、『日本書紀』見られる安閑天皇元年534年)[武蔵国]の笠原直使主(かさはらのあたいのおみ・かさはらのあたい おみ、おぬし)は大和朝廷と結び、上毛野君かみつけぬのきみ)と組んだ小杵(おき・おぎ)を破った。この結果笠原直使主大和朝廷から武蔵国国造武蔵国造)の家(武蔵国造家)であることを認知され、横渟(よこぬ)、橘花たちばな橘樹郡)、多氷(たひ・おおい歴史的仮名遣:おほひ)、倉樔(くらす。後に久良(くら)郡、さらに久良岐郡)の4ヶ所を屯倉として献上した記される飛鳥・奈良時代以降律令制導入に伴い横浜市域にも郡(評)が置かれた。7世紀後半までに、市域には武蔵国橘樹郡久良岐郡都筑郡相模国鎌倉郡置かれた。橘樹郡川崎市のほぼ全域横浜市北東部久良岐郡横浜市中南東部都筑郡横浜市北西部相模国鎌倉郡横浜市南西部鎌倉市をその領域とする。 都筑区長者原遺跡8世紀成立した都筑郡衙(古代郡役所)跡とされ、郡庁舎正倉遺構など発見されている。また、この遺跡国道246号旧大山街道)に面しており、この道古東海道であった考えられている。このほかの郡衙は、橘樹郡衙は川崎市高津区官衙遺跡群(国の史跡)、鎌倉郡衙は鎌倉市御成町今小路西遺跡所在地比定されているが、久良岐郡衙は判明していない。 なお、都筑郡の名が見え最古の記録は、『万葉集』である。万葉集には、都筑防人とその妻らの歌が収められている。 家ろには 葦火焚けども 住みよけを 筑紫至りて 恋しけ思はも(橘樹郡上丁 物部真根草枕 旅の丸寝の 紐絶え我が手と付けろ これの針持し(部弟女) 我が行き息づくしかば 足柄峰延を 見とと偲はね(都筑郡上丁 服部於由我が背なを 筑紫遣り愛しみ 帯は解かなな あやにかも寝も(妻 服部呰女『続日本紀』によると、768年神護景雲2年)には、橘樹郡飛鳥吉志五百国が「久良郡」で獲た白雉献上し従八位下授けられた、とある。 古代鎌倉郡にあたる栄区㹨川流域には横穴墓群遺跡発達し㹨川流域横穴墓群という約20200以上にのぼる横穴墓群点在していた。㹨川上流には上郷深田遺跡という古代関東有数製鉄遺跡があった。近くの上猿田遺跡製鉄作業携わる人々ムラだという。 平安時代には各所開発進み三浦氏一族平子氏榛谷氏稲毛氏など有力な豪族がいた。今に残る弘明寺などの寺院は、この有力豪族らにより建立されたものと考えられる927年延長5年)には、杉山神社が、式内社とされた。杉山神社は、全国でも横浜市川崎市、特に鶴見川流域にのみ散在鎮座し数十社が現存するこのうちどの杉山神社当時杉山神社特定するか、定説はない。杉山神社の論社には、緑区西八朔町杉山神社都筑区茅ヶ崎町杉山神社都筑区中川町杉山神社港北区新吉田町杉山神社、および鶴見区鶴見中央鶴見神社などがある。

※この「旧石器時代から平安時代まで」の解説は、「横浜市の歴史」の解説の一部です。
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