新・野村証券の設立
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1978年からの社長である田淵節也は、1981年に会社をニューヨーク証券取引所の会員とすることに成功した。そして日本株を世界中の機関投資家に売り込んだ。「キャピタル」という自社開発のコンピュータシステムへ集積した情報をもとに、ファンドマネージャーがポートフォリオを組むようになった。1986年、イングランド銀行が野村証券に銀行免許を交付。日英金融協議の結果であった。野村証券は1980年代なかばにダウ・ケミカルとIBMのユーロ円債発行の幹事を務めた。 田淵は日本経済新聞の「私の履歴書」で当時のことを回顧した。その後の後任社長に田淵義久が就任したため、同姓の社長となり大田淵、小田淵といわれている。1991年(平成3年)には、株取引に伴う損失補てん問題により、当時の社長であった田淵義久が引責辞任した。 このときの調べで、野村証券は 石井隆匡が東急電鉄株を買占める窓口となっていたことも露見した。 1995年(平成7 年) 証券取引等監視委員会は、市場の膨大な取引の中から野村証券が関与する不自然な取引を把握、情報収集及び任意調査を進め、野村証券がいわゆる総会屋との間で、取引一任勘定取引の契約を締結した上で、数年にわたり取引の受託、執行を行い、これらの取引の中で生じた損失を補てんするため、あるいは,利益を追加するため,多額の財産上の利益を提供していた事実を解明した。 1997年(平成9年)3 月25 日、証券取引等監視委員会は 東京地方検察庁と合同で、野村證券の強制調査を実施。 1997年(平成9年)5 月13 日,証券取引等監視委員会は 犯則嫌疑法人野村証券及び犯則嫌疑者である同社元常務取締役A,同社元常務取締役Bほか1名を東京地方検察庁検察官に告発。大蔵大臣は、野村證券に対し行政処分として、株式関連務停止、全部店の株式関連業務停止、本店第一企業部の有価証券の売買,有価証券先物取引等の受託業務停止、本店の有価証券売買,有価証券先物取引等受託業務停止、公共債(国債,地方債,政府保証債)の引受及び入札参加禁止、代表取締役社長及び取締役2名の外務員登録取消を行った。総会屋に対する利益供与事件により、田淵義久の後を継いだ酒巻英雄が引責辞任。 同年、総会屋利益供与事件と大蔵省接待汚職事件により家宅捜索を受け、野村証券の元常務が贈収賄容疑で逮捕された。 国際決済機関クリアストリーム2000年度口座リストによると、シーメンスはミュンヘンを本拠とする匿名口座をもち、野村証券と結びついていた。後に野村はブレグジットをきっかけとしてフランクフルトを改めて拠点とする。 2001年(平成13年)、持株会社移行に伴い野村證券と持株会社の野村ホールディングスに機能を分割。旧野村證券が野村ホールディングス(持株会社)に衣替えし、新たに旧野村證券が行っていた証券・付帯業務を行う事業会社、新・野村證券が設立され資産等の移転が行われた。このころ日本経済は外国法人に機関化されていった。 リサーチ機能のインハウス化によるグループ経営の効率化を目的として、野村総合研究所のもつ証券調査・市場調査などのリサーチ部門の一部を再編し、1997年(平成9年)に金融研究所(現在の金融経済研究所)を設置し、2004年(平成16年)には野村ホールディングス傘下の独立した法人として野村資本市場研究所を設立した。 2005年(平成17年)12月25日で創業80年を迎え、2006年(平成18年)4月1日より連結グループ名称を「野村証券グループ」から「野村グループ」に変更した。近頃では以前撤退したところに再出店したり、全ての店内ATMをセブン銀行に委託したり、バックオフィス部門を簡略化したりした営業拠点、各都市に支店を出店するなど攻勢をかけている。また、分社前同一会社であったりそな銀行が主幹事を務める大輪会にも参加している。
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