撮影技師から監督への転身
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「下村健二」の記事における「撮影技師から監督への転身」の解説
1902年(明治35年)9月20日、京都府加佐郡河守町(現在の同府福知山市大江町河守)に生まれる。 当初は作家志望であったが、満19歳を迎える1921年(大正10年)に帝国キネマ演芸に入社、大阪の小坂撮影所技術部に配属される。翌1922年(大正11年)10月20日に公開された『良弁杉』(監督中川紫朗)では、同作の撮影技師・大森勝(1897年 - 1991年)のチーフ助手としてクレジットされているが、同作は下村が関わった作品のうち現存する最古の作品である。1924年(大正13年)6月26日に公開された『天王寺の切腹』(監督中川紫朗)で撮影技師に昇進する。1925年(大正14年)の同社内での内紛では、石井虎松サイドにおり、芦屋撮影所を独立させたアシヤ映画製作所で製作に携わる。内紛決着後は芦屋撮影所に復帰するが、翌1926年(大正15年)には東亜キネマに移籍、等持院撮影所に一足先に移籍していた長尾史録と再びタッグを組み、引き続き撮影技師を務める。 1927年(昭和2年)には市川右太衛門が設立した市川右太衛門プロダクションに移籍、奈良のあやめ池撮影所では撮影技師をメインにしていたが、脚本部に所属したという。翌1928年(昭和3年)には奈良の中川映画製作所を根拠地として谷崎十郎が設立した谷崎十郎プロダクション(のちのヤマト映画製作所あるいは関西映画社、代表・川西康雄)に移籍、技術部・監督部に籍を置き、同年3月17日に公開された谷崎十郎の主演作『漂泊の剣士』に自らのオリジナルシナリオで監督としてデビューした。当時は、あやめ池に近い奈良市奥芝町に居を構えていた。『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』によれば、当時青年期の下村の身長は5尺2寸(約158センチメートル)、体重は14貫(52.5 キログラム)、趣味は文学と音楽だったという。1929年(昭和4年)には牧野省三存命中のマキノ・プロダクション傘下の勝見庸太郎プロダクションに移籍、牧野省三没後の1930年(昭和5年)にはマキノプロダクション御室撮影所でいずれも撮影技師を務めている。1931年(昭和6年)には、小説『伝五左といふ男』を執筆して第9回サンデー毎日大衆文芸に応募し、佳作に残った。同年後半には、同社から独立して奈良に撮影所を築いた月形龍之介に同行、月形プロダクション(第二次)の第1作『舶来文明街』(監督冬島泰三)の撮影技師を務め、同作は同年11月1日に公開されて、同年度のキネマ旬報ベストテン第5位を受賞した。同社の第2作を待たずに、川西康雄の関西映画社が製作した『北満の血戦』で3年ぶりに監督業に復帰した。同作は同年12月24日に公開されたが、翌1932年(昭和7年)には市川右太衛門プロダクションに復帰し、1934年(昭和9年)2月8日に公開された『仇討土人形』(監督古野英治)までは、みたび撮影技師に戻った。同年2月1日に公開された実川童主演の同社第二部作品『大久保彦左衛門』で監督に返り咲いたが、同年、同社を退社した。 1935年(昭和10年)2月に設立された極東映画に移籍、当時同社は御室撮影所を仮撮影所にしていたが、同年4月29日、兵庫県西宮市甲陽園の甲陽撮影所に移転し、監督業に専念する。翌1936年(昭和11年)、撮影所を甲陽園から大阪府南河内郡古市町白鳥園(現在の羽曳野市翠鳥園)へと移転したとき、俳優の羅門光三郎、市川寿三郎、綾小路絃三郎ら、監督の園池成男こと古海卓二、児井秀男(のちの児井英生)とともに甲陽園に残留、甲陽映画を設立した。甲陽映画ではひきつづき監督業に専念することができたが、同社の製作物の配給を行っていた千鳥興行が同年秋には資金ショートを起こし、千鳥興行が同様に配給・興行を行っていたマキノ正博のマキノ・トーキー製作所が自主配給を開始するとともに、甲陽映画の作品もあわせて配給を請け負った。下村が監督した『どくろ大明 第一篇』がマキノトーキー配給による第1回作品で、同年10月1日に公開された。1937年(昭和12年)4月にはマキノ・トーキー製作所が解散、甲陽映画はマキノ一家の今井理輔を擁立して今井映画製作所へと転身、製作拠点も甲陽撮影所から太秦帷子ヶ辻のマキノトーキー跡地(現在の松竹京都撮影所)に移転、同社の機材を活用してトーキー製作を開始、配給は東宝映画が請け負った。岸松雄(1906年 - 1985年)によれば、同社では総務担当も兼務していたという。今井映画製作所も1938年(昭和13年)春には解散、下村は東宝映画京都撮影所に移籍、森野鍛冶哉・高勢実乗を主演に迎えた喜劇映画『絵本五十三次』(脚本小林正)を監督、同作は同年9月7日に公開されたが、同作を最後に、下村は劇映画の現場を離れた。
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