撮影後の編集制作
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「ダーティ・ダンシング」の記事における「撮影後の編集制作」の解説
撮影は1986年10月27日、予算も期間も予定通りに完了した。しかし撮影チームの誰ひとり、ラフ・カット版が気に入らず、ベストロン社の役員は映画興行が失敗するだろうと考えていた。試写を見た人々の39パーセントは、堕胎がサブ・プロットであるとは理解しなかった。1987年5月、プロデューサーのアーロン・ルッソが試写を見た。ベストロン社重役のミッチェル・キャノルドによれば、最後まで見終わったルッソは、「ネガを燃やして、保険を集めろ」と言っただけだったという。 さらに、スポンサー会社が映画を宣伝するかどうかでまた論争が起きた。ニキビ用製品クレアラシルの発売元は、この映画を、広告ターゲットである10代の若者に向けた情報媒体とみなしていた。しかし映画に中絶シーンが含まれることを知ると、その部分をカットするように求めた。バーグスタインが拒絶すると、クレアラシルはプロモーションを降りた。そこでベストロンが自社で映画をプロモートし、1987年8月16日を公開初日と設定した。ベストロン社重役は、週末の劇場で映画を封切る計画を立て、次いでそれをまっすぐホームビデオ部に送った。ベストロン社は映画作製に携わる以前は、ビデオ配給業務を扱っていたからである。この時点で、どれほど多くの人々がこの映画を好まなかったかを考え、プロデューサーのゴットリーブは当時の心情を、「封切りの時に『もし』人々が私をどやしつけなかったなら、わたしはひたすら感謝しただけだったろう」と語っている。
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