撮影技師の時代
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1917年(大正6年)1月19日、島根県八束郡揖屋村(現在の松江市東出雲町揖屋)に生まれる。松江商工学校(現在の学校法人島根学園)を卒業後、松江高等簿記学校(現在の松江西高等学校)に進学したが、中途退学した。 1935年(昭和10年)、日活に入社し、日活京都撮影所撮影部で撮影助手になる。1941年(昭和16年)、技師に昇進、同年5月11日に公開された『天兵童子 第一話 幼き英雄』(監督組田彰造)で撮影技師としてデビューするとともに、『天兵童子』4部作すべてを手がける。第二次世界大戦にともなう戦時統制により、日活の製作部門は他の2社と統合されて、1942年(昭和17年)1月27日、大日本映画製作株式会社(大映)を形成するが、このとき、大映に転社する。同年7月には、杉山公平、吉田貞次、加藤泰通(のちの加藤泰)らとともに満洲映画協会に移籍した。
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