我々の会、新光会を設立
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「近藤孝太郎」の記事における「我々の会、新光会を設立」の解説
1925年(大正14年)、杉山新樹、山本鍬太郎らとともに「我々の会」を作り、洋画の展覧会を開き新人の育成に努める。同年2月、若山牧水を岡崎に招き、短歌頒布会を実施。6月には版画・詩・短歌の雑誌『試作』を創刊し、版画運動に先駆的役割を果たした。このころ石彫刻を自ら試みるなど実作も行い始めた。 1927年(昭和2年)4月、愛知県岡崎師範学校の学生と洋画研究の会「新光会」を設立し、その指導に当たった。県立第二中学校の後輩で、『三河日報』の記者をしていた和田英一の影響もあり、この頃より社会主義思想への傾斜を深めて行く。絵や詩を教えるかたわら社会主義に関する読書会を行った。当時は訳本がなかったことから、自らマルクスの『賃労働と資本』やレーニンの『国家と革命』などを翻訳し、学生とガリ版刷のテキストで読み合った。 1928年(昭和3年)活動は芸術研究にとどまらず、秋に「マルクス主義研究会」を結成する。 1929年(昭和4年)7月19日、「新光会」のメンバーで岡崎師範学校生徒の畔柳治三雄らは防空演習の折、市内の電柱や板壁に帝国主義戦争に反対するビラを貼付。多数の生徒が退学処分となったこの事件において近藤も取り調べを受けたが、警察は近藤の直接関与はないと判断した。 同年7月、プロレタリア科学夏期大会に参加。受講後参加者により「プロレタリア科学友の会」が結成され、近藤は推されて会長に就任。プロレタリア科学友の会にもやがて当局の手が入り、1931年(昭和6年)、近藤は本富士警察署に検挙される。言語に絶する拷問が行われ「転向」を条件に釈放されたことを近藤は生前、盟友の山本鍬太郎に語っている。衰弱した体で米河内の実家に辿り着き、回復するまで岡崎にいた。 その後、上京までの2年間は社会的な活動を封印。澄子夫人と結婚。陶芸と茶道に親しみ加藤唐九郎と交流。1933年(昭和8年)の4月から岡崎市史編集事務嘱託として岡崎市立図書館・図書館長で恩師の柴田顕正の手助けを行う。 1934年(昭和9年)11月、上京。音楽新聞社に入り『音楽新聞』編集長となった。舞踏批評家として活躍し石井漠との論争や「写生論」で知られるようになる。また日本舞踊家の花柳徳兵衛らと交わる。舞踏劇『焔の御子』を執筆。同作品は青山圭男の演出、福田蘭堂の作曲、水の江瀧子の主演で1940年(昭和15年)に新橋演舞場で上演された。藝能団体の役員にもなった。 1937年(昭和12年)10月、東京石川島造船所に入社。産業報国文化部長となり青年労働者に絵を教え、文学を講じ、彼らの文化的向上に情熱を傾ける。しかし結果としてその赴くところ、熾烈な反戦思想の鼓吹となり、1945年(昭和20年)4月に再び検挙され、豊多摩刑務所に留置された。
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