我々の会、新光会を設立とは? わかりやすく解説

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我々の会、新光会を設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:23 UTC 版)

近藤孝太郎」の記事における「我々の会、新光会を設立」の解説

1925年大正14年)、杉山新樹山本太郎とともに「我々の会」を作り洋画展覧会開き新人育成努める。同年2月若山牧水岡崎招き短歌頒布会実施6月には版画・詩・短歌雑誌試作』を創刊し版画運動先駆的役割果たしたこのころ石彫刻を自ら試みるなど実作行い始めた1927年昭和2年4月愛知県岡崎師範学校学生洋画研究の会「新光会」を設立し、その指導当たった県立第二中学校後輩で、『三河日報』の記者をしていた和田英一影響もあり、この頃より社会主義思想への傾斜深めて行く。絵や詩を教えかたわら社会主義に関する読書会行った当時訳本がなかったことから、自らマルクスの『賃労働資本』やレーニンの『国家と革命』などを翻訳し学生ガリ版刷のテキスト読み合った1928年昭和3年活動芸術研究とどまらず秋にマルクス主義研究会」を結成する1929年昭和4年7月19日、「新光会」のメンバー岡崎師範学校生徒の畔三雄らは防空演習の折、市内電柱板壁帝国主義戦争反対するビラ貼付多数生徒退学処分となったこの事件において近藤取り調べ受けたが、警察近藤直接関与はないと判断した同年7月プロレタリア科学夏期大会参加受講参加者により「プロレタリア科学友の会」が結成され近藤推され会長就任プロレタリア科学友の会もやがて当局の手入り1931年昭和6年)、近藤本富士警察署検挙される言語に絶する拷問が行われ「転向」を条件釈放されたことを近藤生前盟友山本太郎語っている。衰弱した体で米河内実家辿り着き回復するまで岡崎にいた。 その後上京まで2年間は社会的な活動封印澄子夫人結婚陶芸茶道親しみ加藤唐九郎交流1933年昭和8年)の4月から岡崎市史編集事務嘱託として岡崎市立図書館図書館長で恩師柴田顕正の手助けを行う。 1934年昭和9年11月上京音楽新聞社に入り音楽新聞編集長となった舞踏批評家として活躍し石井漠との論争や「写生論」で知られるうになる。また日本舞踊家花柳徳兵衛らと交わる。舞踏劇『焔の御子』を執筆同作品は青山圭男演出福田蘭堂作曲水の江瀧子主演1940年昭和15年)に新橋演舞場上演された。藝能団体役員にもなった。 1937年昭和12年10月東京石川島造船所入社産業報国文化部長となり青年労働者に絵を教え文学講じ、彼らの文化的向上に情熱傾ける。しかし結果としてその赴くところ、熾烈な反戦思想鼓吹となり、1945年昭和20年4月に再び検挙され豊多摩刑務所留置された。

※この「我々の会、新光会を設立」の解説は、「近藤孝太郎」の解説の一部です。
「我々の会、新光会を設立」を含む「近藤孝太郎」の記事については、「近藤孝太郎」の概要を参照ください。

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