我が名はヘリオガバルスとは? わかりやすく解説

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我が名はヘリオガバルス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:47 UTC 版)

ヘリオガバルス」の記事における「我が名はヘリオガバルス」の解説

皇帝最初に結婚した相手はユリア・コルネリア・パウラ(英語版)という女性であり、220年豪奢な結婚式挙行されている。このときヘリオガバルスは、ローマ市民兵士に対して御祝儀大盤振る舞いしたといわれる。コルネリア・パウラは、同じシリア領地を持つ有力貴族の娘であったことから、皇帝即位時に周囲決めた政略結婚であった考えられている。彼はアウグスタ皇后)の称号得たものの、この結婚生活長く続かず、その年のうちに2人離婚したパウラ皇帝異常なまでに強い求愛応えられないというのが離婚理由であった考えられている。 皇帝パウラ離婚すると、220年末に「ウェスタの処女」たる巫女のアクウィリア・セウェラ(英語版)を手篭めにして再婚した。竈(かまど)の神ウェスタ仕え巫女共同生活送り聖なる火を絶やさぬことを務めとしていた。幼少時神職召された巫女たちは「神々に身を捧げる」という意味から、その身を清らかに保つため、神に仕えるあいだ処女を貫くことが求められ、その禁忌破った場合には生きたまま穴埋めされるという恐ろしい掟があった。しかし、ヘリオガバルス巫女境遇哀れみ周囲に「彼と結ばれれば、きっと神のように美しい子どもが授かる」と論じ禁忌破ってでも結婚した伝えられている。政略結婚除けば、アクウィリア・セウェラ(英語版)が最初で最後の自ら選んで結婚した女性だった。 禁断結婚対す周囲批判からほどなく結婚半年でアクウィリアとの婚姻解消された。理由諸説あるが、ヘリオガバルスが古いしきたり縛られるアクウィリア・セウェラ(英語版)を哀れみ、彼女を救済する目的一時的に結婚していたとされる説もある。そしてヘリオガバルス221年7月3度目の妻として迎えたのは美貌知られた。アンニア・アウレリア・ファウスティナ(英語版であった。彼は、五賢帝ひとりで哲人皇帝として知られマルクス・アウレリウス曾孫で、その子であり暴君として暗殺されコンモドゥス帝の大姪であった。これはセウェルス朝前王家にあたるネルウァ=アントニヌス朝との連続性主張する政治的意図があった政略結婚とみられる。この結婚もうまくいかず、221年中には離婚し結局ヘリオガバルスはアクウィリアとよりを戻して4度目結婚果たした

※この「我が名はヘリオガバルス」の解説は、「ヘリオガバルス」の解説の一部です。
「我が名はヘリオガバルス」を含む「ヘリオガバルス」の記事については、「ヘリオガバルス」の概要を参照ください。

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