我が世の末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
吉田前内大臣、右大弁清忠など打続きみまかりにける比、おぼしめしつゞけさせ給うける事問はん 人さへまれに 成にけり 我世の末の 程ぞ知らるゝ(大意:私と政治の問答を行った廷臣たちさえも少なくなってしまった――我が生涯の残りの命数も、もはや知れたものだ) —後醍醐天皇御製、『新葉和歌集』哀傷・1376 延元3年/建武5年(1338年)初頭、側近の公卿である吉田定房・坊門清忠が相次いで薨去したのを悼んだ歌。後醍醐の予見通り、この翌年に自身もまた崩御する。
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