成蹊中学校の設置
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「成蹊中学校・高等学校」の記事における「成蹊中学校の設置」の解説
当時、東京府下の中学校は第一中学校から第四中学校までの府立中学校、29の私立中学校、ほかに慶應義塾普通部・慶應義塾中等部、宮内省管轄の学習院中等科、中村の母校東京高等師範学校附属中学校などがあった。1912年時点で成蹊園の生徒24名のうち5名が中学校に在籍し、京北中学校・開成中学校などに通学していた。中村春二は信頼できる中学校の少なさに疑念を抱き、中学校新設を強く希望していた。成蹊実務学校開校から僅か2年後の1914年4月、実務学校舎南側に成蹊中学校が開校する。同時に翌12月6日付の朝日新聞や読売新聞の朝刊で5人(岩崎・中村・今村・永井・高木)を理事とする財団法人の設立と、学校の特色が報じられた。開設決定の場は高輪の岩崎邸であった。尋常小学校卒業を入学資格とする修業年限5年制学校であり、1886年公布の中学校令に準じ「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為ス」ことを目的に設立される。設立申請書は東京都公文書館に所蔵されている。生徒は主に、経済的余裕があって教育熱心な中流家庭および上流家庭の子弟で構成され、卒業生の進路としては高等学校・専門学校が多く高等専門学校の予備教育機関としての色合いが強かった。実際に生徒の保護者層は華族や実業界の成功者、高級官吏など社会の上層の人を含んでおり、無職の父兄もあったがその大半は地所・株券の収入で生計をなす資産家の高等遊民であった。成城学園創立者澤柳政太郎、甲南学園創立者平生釟三郎も自身の子弟の教育を託した。成蹊園客員の男爵新田義美(岩松新田家3代当主)とその兄弟も他校から成蹊に転入した。 中学校設立には中村春二の東京高等師範学校附属中学校同窓生らも賛同していて、特に外務次官の永井松三・医師の高木兼二(東京慈恵会医科大学創設者で海軍軍医総監を務めた男爵の高木兼寛の次男)の2名が熱心に後押しし成蹊中学校理事にも就任した。両者もまた中村の成蹊教育に共鳴し、自身の子息らを1915年創設の成蹊小学校に入学させている。 学則により入学は選抜試験合格者に限る事が定められた。また学則第8章には「生徒心得」として守るべき校訓5カ条を掲げている。これは中村自身が附属中学校入学に際して陸軍少将の山川浩校長から授かった訓示を踏襲したもので、同校で学んだ精神を成蹊中学校にも継承した。学費は入学金1円、授業料は月額5円であり、当時の私立中学の学費相場(1円から3円)を上回っていた。寄宿舎に子弟を入舎させる場合はさらに高額となった。自他共に認める高額の月謝徴収を決めた成蹊中学校でも、実務学校創立理念を受け継ぎ学則にはない特待生制度を用意した。 指導面で特に留意したのは英語と数学で、英語講師には英語学と英語教育の専門家、青木常雄(東京教育大学名誉教授)を採用している。青木は当時東京高等師範学校でオーラル中心の新教授法が早期から導入されており、それを参考に成蹊中学校でも口頭練習を多分に取り入れた授業を展開した。女子英学塾(のちの津田塾大学)創立者津田梅子や、学習院の熊本謙二郎といった当時の英語教育の第一人者も授業を参観している。鈴木ビアトリス(文化勲章受賞者の鈴木大拙夫人)や香港総督秘書であった英国伯爵リチャード・ポンソンビー・フェインら外国人教師も招かれ本場の英語に触れて欧米文化を吸収した。図画教師には成蹊園に在籍する曽宮一念(洋画家)が任命された。 また、成蹊中学校の精神主義・鍛錬主義の教育は注目を集め陸軍士官学校長や陸軍幼年学校長が度々来校した。1916年3月には陸軍大将の上原勇作、同じく元陸軍大将で学習院長の大迫尚敏が来校して凝然や授業を熱心に参観し「生徒の気込を真剣ならしむる点は実に良い」と述べた。当時、陸軍当局が優秀校として注目していた東京府下の中学校は成蹊中学校を筆頭に、府立四中、開成中学の3校であり、成蹊中学校の生徒たちは陸軍士官学校の卒業式、恒例の観兵式に特別招待された。
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