高等遊民
高等遊民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/03/26 13:44 UTC 版)
高等遊民(こうとうゆうみん)とは、日本で明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉であり、大学等の高等教育機関で教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由が無いため、官吏や会社員などになって労働に従事することなく、読書や学術研究などをして過ごしている人のこと。
語源
閲覧できる範囲では『読売新聞』1903年9月25日の「官吏学校を設立すべし」での論説が、高等遊民に触れられている最も古い資料である。また、一時期は上級学校への入学や上級学校卒業後の就職が叶わなかった者が高等遊民となり、高等知識を持った彼等が自然主義[1]、社会主義、無政府主義などの危険思想に感化され、それらが社会問題に繋がると考えられていた[2]。
定義
高等遊民は何ら生産的な活動をせず、ただ日々を雅やかに過ごしたり、学問の延長として己の興味のある分野(趣味の活動を含む)を追い求めていたりした。夏目漱石が『彼岸過迄』で用い[3]、『吾輩は猫である』の迷亭、『それから』の長井代助、『こゝろ』の先生などは典型的な高等遊民であり、川端康成の『雪国』の主人公のように、他の作家にもしばしば文学のテーマとしても取り上げられている。石川啄木は、旧制中学校卒業後に立身出世がかなわず父兄の財産を食い潰して無駄話を事業として生活している者を遊民としていた[4]。
竹内洋によれば帝国大学(東京大学)卒業者であっても文系とくに文学系の就職は元々悪く、学者や教員、官員になる者が大半で、身の振り方が決まらない者は「就職するまでの待合室」として大学院に在籍するのが常であった(研究生であれば学費は徴収されなかった)。第一次世界大戦のような好景気が起きると就職状況は一気に改善し、一方で昭和恐慌が猖獗を極めた昭和6年の大学・専門学校卒業者の就職率は36.0%まで低下したという[5]。
最終的に昭和初期満州事変・日中戦争へと続く対外戦争の中で起きた軍需景気により、就職難が解消し、国家総動員体制の元で何らかの形で戦争へ動員され、高等遊民問題は解消に向かっていった[6]。
岡本綺堂作半七捕物帖第1作「お文の魂」(元治元年(1864年)が時代設定、大正6年(1917年)文芸倶楽部発出)には、次の記載がある。
旗本に限らず、御家人に限らず、江戸の侍の次三男というものは、概して無役の閑人であった。長男は無論その家を継ぐべく生まれたのであるが、次男三男に生まれたものは、自分に特殊の才能があって新規御召し出しの特典を受けるか、あるいは他家の養子にゆくか、この二つの場合を除いては、殆ど世に出る見込みもないのであった。かれらの多くは兄の屋敷に厄介となって、大小を横たえた一人前の男がなんの仕事もなしに日を暮らしているという、一面から見ると頗る呑気らしい、また一面から見ると頗る悲惨な境遇に置かれていた。こういう余儀ない事情はかれらを駆けて放縦懶惰な高等遊民たらしめるよりほかなかった。かれらの多くは道楽者であった。退屈しのぎに何か事あれと待ち構えている徒であった。
これからすると、江戸時代から高等遊民という存在があったと思われ、朱子学など高度な教育を受けた武士階級の子弟が、その教育の高さのゆえ旗本奴(かぶき者)にもならず、一方でその教養や才能を発揮する場所もなく婚姻もかなわず、鬱屈した人生を送った人々(部屋住み)であった。
長子相続を伝統とする英米[7]でも同様の存在がおり、次男以降は相続以外の方法で自身の財産を見つける必要があり、軍に所属したり実家の支援の下で植民地で新たな人生を切り開くなりする者が多くいた。とくに本国で恥を晒し家族にとって黒い羊と見なされた者は仕送り暮らしの男(リミッタンスマン)として遠隔地にやっかい払いされ、静かに自殺するか、可能であれば再生を図る者として現地の者に軽蔑の対象とされた。
脚注
- ↑ 引用元にあるこの語の差す対象は明確ではなく、一般に大正期における「自然主義」は自然主義文学を指すと考えられる。日本では1900年頃からこの手法を用いる作品・作家が見られるようになったが田山「蒲団」以降、次第に露悪的、退廃的表現を指すものと考えられるようになり人気が衰退した。一方でその表現手法はプロレタリア文学に影響を与えたとされる。なお明治初期には「自然法」概念の移入により天賦人権がさかんに論じられ、共和主義(反皇室)を含む危険思想として弾圧された経緯があり、論者によればこれも含意しているものと考えられる。
- ↑ 竹内洋. “第2回 高等遊民と危険思想 教養難民の系譜”. 2011年2月23日閲覧。
- ↑ 「『振っている』『高等遊民』『露悪家』『月並み』等の言葉の文壇に行われるようになったのは夏目先生から始まっている。」(芥川龍之介『侏儒の言葉』)と記述されたことから「高等遊民」は夏目漱石の造語と考えられがちであるが、竹内洋によれば「遊民」自体は古くからある表現で、これに「高等」を付けた「高等遊民」としての用例は明治40年代に頻用されており、背景には幸徳事件があったと指摘する。また漱石が「高等遊民」という表現を直接使用しているのは「彼岸過迄」のみであり他の作品では使用していないとも指摘する。竹内洋. “第2回 高等遊民と危険思想 教養難民の系譜”. 2011年2月23日閲覧。
- ↑ 傳澤玲「明治三〇年代における立身出世論考 : 『成功』を中心に」『比較文学・文化論集』第11巻、東京大学比較文学・文化研究会、1995年3月、1-16頁、doi:10.15083/00026651、ISSN 0911341X。
- ↑ 竹内洋. “第3回「大学は出たけれど」教養難民の系譜(3)”. 2025年12月26日閲覧。
- ↑ 町田(2009)pp.330-331。
- ↑ イギリスは1925年の遺産相続法まで長子相続であった。
参考文献
- 町田祐一『近代日本と「高等遊民」』吉川弘文館、2009年12月。 ISBN 978-4-642-03799-0。
- 内田魯庵 『文明国には必ず智識ある高等遊民あり』(青空文庫)
関連項目
「高等遊民」の例文・使い方・用例・文例
- 高等遊民
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